読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

箱、漢詩、アメリ、長野県

http://www.geocities.jp/utataneni/nature/new.htmlで加筆訂正します


 空は雲が多いほど、陰翳があって美しい。
 美術館に行かなくなったのは、忙しいからだ。でも、美から離れたわけではない。
 窓の外の空を見ることもそうだし、いま、机のうえには箱を飾っている。印刷機のインクの箱である。
 印刷機に嵌めるため、ふたつの面に四角い穴が開いている。箱が室内、穴が窓に見える。
 段ボールでできているが、茶室の砂ずり(?)の壁みたいだ。落ち着く。
 ある面にはタテヨコ数ミリの細長い窓がふたつ並んでいる。高い位置にある小窓のようだ。そこから光が差しこむと美しい。
 時間によって、箱に当たる日の光はちがい、おもむきが変わる。
 なんでこの箱がいいのか考えることもおもしろい。…ひとつには、大きな“窓”のすみが直角ではなく、丸みを帯びていることがあるように思う。
 箱だけでなく、文具(ステーショナリー)、食器。そういうものも毎日を美で飾ってくれる。
 考えると、お店にはそのような、日常生活を楽しませ、彩ってくれる物があふれ、たくさんの人が求めている。


 夜、テレビの映画番組をつける。冒頭、紅葉した森を空から映したシーンが鮮やかで美しい。森ではなく、セントラル・パークであった。
 商店のある下町、高層ビルの立ち並ぶ夜景。ニューヨークのいろいろな場所や、部屋のインテリアが目を引く。(ただし、ファッションはいまいち)。年齢差のある恋愛という設定にも、興味をもつ。
 しかし内容は……。金持ちで、センスのいい人らしい初老の男が若い女をためらいながら、パーティーに誘うところ。会場で若い女が車から降りてくるところ。そのとき女は、男が見繕った高価なドレスをまとっている。会場でふたりが踊るところ。場面が変わり、ベッドに寝ているところ。
 朝食のとき、女がとつぜん「わたしは病気なの」と言い出すところ(パーティーシーンで「化粧が濃い」とは思ったが)
 …そういうところに、笑ってしまう。用もあったので、電源ボタンを押す。
 ラストは、白い雪の降るシーンだろうか。
 そういえば、「欧米の人にはこういう日本人、こういうメイクが美人なのかなあ」と思わされる、へんな日本人女性が出てきた! 男の恋人役。
 撮影クー・チャンウェイ、美術マーク・フリードバーグ、脚本アリソン・バーネット、監督:陳冲(ジョアン・チェン)。リチャード・ギア(ウィル役。『アメリカン・ジゴロ』『プリティ・ウーマン』の人であった)、ウィノナ・ライダー(シャーロット)。2000年。『オータム・イン・ニューヨーク』






 漢詩・唐詩に興味をもった。でもいまの時代、漢詩を読むことは、ふつうの人のあいだでは流行っていない。
 もしかしたら、テレビや映画やインターネットもなく、現代ほど多種多様な本が手軽に得られなかった時代、漢詩を読むことはおおきな娯楽だったのではないか?
 そこには美しい自然や、魅力的な外国の風景や、人と人をつなぐ美しい思いが描かれている。
 というより、漢詩によって、わたしはそれらの存在、美しさを教えられる。虫や植物をズーム・アップなど工夫して編集した映像のように、美しさ、魅力に出会わせてくれる。
 海の向こうの、異国情緒あふれる景色を映し出すテレビ番組のように、むかしの日本人は広い中国を知ったのではなかったか。想像してきたのではなかったか。
 その深い広い世界を、漢詩は五言絶句なら、わずか20文字の言葉で表現しているのだ。すごい。言葉ってすごい。
 短詩だから書写し、所持しやすかっただろう。
 漢詩には自然、人事の魅力が凝縮されている。その魅力は、美しい言葉、字によって表現されている。
 わたしが中学生、高校生のときに国語の授業で知った漢詩を覚えているように、長い時間を経ても記憶に残るものでもある。



 夜、この日の映画は『アメリ』。前日の『オータム〜』とは大違い。おわりまで引きこまれて見続けてしまう。
 「小津安二郎の『東京物語』もすごいけど、『アメリ』もすごい!」
 いい映画はたくさんあるけれど、このふたつが独立峰、独自の世界を築いている一個の作品のように感じたからだろう。
 はじめて、「いますぐビデオを借りに行きたい、DVDを買いたい」と思った。DVDプレーヤーを買う予定もないのに。

 心あたたまるストーリーかと思いこんでいたが、違った。
 まず、わたしの好きなものに満ちていた。それは感覚重視、物重視の描き方である。五感や物質に、ベッタリしているところである。たとえば、豆の袋に手を入れるのが好きとか。
 で、ぐろい。(グロい、グロテスク)。たとえば、はじめの方の、赤ん坊が産まれるシーン。
 かわいいところ、気持ちのよいところ、快楽だけではなく、物が放ち、人間の感覚がうけとる生々しさ、気持ち悪さも挿入されている。
 ほかに引きつけられたのは、アメリが子どもっぽいこと。社会と調和できないこと。その苦しみ。
 ヒットしたってことは、多くの人が共感したということなのだろうか。

 アメリの好きなことである、映画館で観客の顔を見ること、運河で水切りをすること、その石をいつも服のポケットに入れていること。そういうところは意表をつかれたけど、「いい」と思った。
 そしてそして恋。恋のしかたが、相手にどう接し、魅了するかという作戦として描かれているところ。怖ろしい。
 また、“外”の世界に入って、その現実と生きていかなければならない、という勇気の話。これも怖ろしい。
 アメリとニノのように、似たもの同士のカップルがいいのか、どうかも。
 人を幸福にさせたがるアメリがくっつけたカフェの店員と客の男は、ラストで別れている。情熱的にくっついたのに、みっともない感じで。アメリはニノの運転するバイクにまたがって、路地を疾走しているけど、この後どうなるのだろう? 気になる。
 
 赤と緑を基調にしたアメリの服や、アパートの部屋がすてきだ。
 先の店員が恋の進展につれて、服の傾向が変わっていく。おもしろい。 
 ミヒャエル・ゾーヴァの絵が重要な役目を果たしていた!
 ゾーヴァの絵は、書店の絵葉書で知った。日常の静謐な風景のなかに、動物を主役とした、ほんとうに起こりそうな非日常的なできごとが描かれている。ユーモア、ブラックユーモア、悲しみが漂っていて好きだ。画集にも出会って買った。
 だから、『アメリ』にびっくりし、うれしかった。だって、絵画をあんなふうに使うなんて。あんなふうにゾーヴァの絵画が映画に参加しているなんて。とてもとてもうれしい。

 深く喜んだという点でも、『アメリ』は変な映画かもしれない。
 わたしにとってアメリは、関心をもたずにはいられない存在だ。実在の人物だったらいいのに、と願うほど。
 ある人が、アメリはよかった、と言ってから、「主人公はふしぎちゃんだよね」と続けた。人によって感想はちがうみたいだ。
 アメリの勤めるカフェには、売れない中年の男性作家(イポリト)もやってくる。ありきたりの陳腐なせりふ・文章を、自分が生みだした、独自のすばらしいものだと思っている。
 でも、そんな小説の一節が街の壁に落書きされているシーンで、わたしはその目新しくもない言葉をいいと思った。心にやさしく染みこんできた。
 『アメリ』は、変なもの、それと表裏一体になっている弱さを肯定しながら、そういうふうに「ふつう」とつながっている映画だと思う。アメリのいたずら的な仕掛けや、それが周囲の人にもたらした幸福が、意表をつくものではないのと同じように。

オドレイ・トトゥ。
マチュー・カソヴィッツ(ニノ・カンカンポワ)。
イザベル・ナンティ(カフェで煙草を売っている店員)、
ドミニク・ピノン(カフェで元恋人の行動とその分析(妄想?)をボイス・レコーダーに吹き込んでいる男)、
セルジュ・メルラン(アパートの外に出ず、ルノアールの絵を描いている老人)、
美術アリーヌ・ボネット、衣装(デザイン)マドリン・フォンテーヌ、撮影ブリュノ・デルボネル、脚本ギョーム・ローラン、脚本・監督ジャン=ピエール・ジュネ








 長野県へ。雪に覆われた浅間山には、ひびが入ったような青い地肌がのぞいていた。
 山頂のふちからは、明るい青空をバックに、白い煙が上っている。目をこらすと、煙はむくむくと湧き出ているようだ。
 湯気みたい。ほんとうに火山は「お釜」だ。
 ほかのなにかにも似ている。しばらくして思い出した。湯の花まんじゅうの店頭に置かれている、蒸し器の模型。たくさんの白い湯気が出ているあれ。
 地震の予兆は難しい。しかし、いま目の前ではものすごい火山活動が見える。この煙の噴出量は非日常的で、おそろしいと思う。しかし、人々は移動したりしない。

 道の駅でイチゴなどを買い、やっと開店時間に間に合った(いつも閉まっていた)お店でそばを食べ、坂城町でいつもの味噌(ミソ)を買う
 同行者は、雪の積もった場所で犬を遊ばせたがっていた。しかし、日が好く当たり、雪はほとんどない。
 結果として、今冬2回めのスキー場ゆき。滑らないのに。
 別行動で散歩した。ゲレンデに入って、スピードを楽しんでいる人々を見た。自分もやってみたくなる。しかし、寒いし、飽きたのでお店に入った。お菓子を買って食べた。もってきた本を読んだ。

 『鴎外の子供たち』森類。
 長姉・茉莉の客観的な描写と、彼女に寄せる共感もいい。というか、正直、私生活を知る楽しみである。
 類の眼はほどけている。結婚するまで弟として、べったりくっついていた杏奴の人物像も容赦ない。杏奴は人を崇拝する傾向がある、という指摘は自分を省みると痛いなあ。
 「崇拝」は、類の対極にあるものだ。類は人事のあるがままを描き出す。
 類には家族を中心としたつきあいしかなく、外の世界とは隔絶していた。その生活の感じもよく描き出されている。
 高名な官僚で作家、森鴎外の息子で、異母兄は東京帝国大学医学部教授(於兎の手記を読むと、教育ママの祖母と、冷たく利己的な義母のあいだで、彼も苦労している)。しかし、当時の中学校を中退。かといって戦争が終わるまでは貧しくもない。ひとつの身分の枠では描き出せないように思う。
 どこにも属さず、これといった肩書きもないまま生きてきた人。もう、これからは誕生しなそうな階層・階級・生い立ちの物書きではないだろうか。
 いわゆる負け組だ。すでに小学校で落ちこぼれ。戦後は、働くが使い物にならず解雇される。いろいろな場面に挿入されている感想・意見は視野狭窄、無情に見えたりして、すべてが肯定できるものではない。身近にいたら、好きにならないだろう。
 しかし、物書きとしてはすばらしい。この本に限らず、ほかのエッセイも、書いた物はすばらしい。

 本に夢中になっていた。携帯電話で呼び出された。同行者が待ちくたびれて怒っていた。車にもどっても、「はやく停まらないかなあ、読みたい」と思っていた。すると停車。喜んだのも束の間、犬との写真を写すようにいわれる。
 雪の積もったところに出て(出されて)、会社の社長、あるいはなにかの集団のリーダーがにこにこして大統領と握手しているような写真を撮る。大統領が犬で、後者が同行者である。
 何枚も撮らされる。ぜんぶ、犬が座って手を出しているおなじような構図である。しかし後で、ほとんどがプリントされなかった。
 軽井沢を通過。林の中に点在し、低い石垣にかこまれた瀟洒な別荘をみたくなる。洋館よりも、ちょっと古びた日本家屋が望ましい。水村美苗『本格小説』(サブタイトル「日本近代文学」)の影響だ。
 この大作は、太郎とよう子の幼少時よりも、緑の輝く軽井沢の描写や、“太郎ちゃん”がアメリカで大金持ちになって登場する所からが好きだ。彼は元ネタ・本歌(というのだろうか)の『嵐が丘』のヒースクリフよりも、ある意味かっこいい。少女マンガのキャラクターのようでもある。きれいで、空虚、ニヒル。すーっと消えていく。
 結局、軽井沢で見たかったような建物には出会えなかった。