伊勢物語、天地人、映画

http://www.geocities.jp/utataneni/nature/new.htmlで加筆訂正します


 平安時代伊勢物語』は、きらきらと輝くダイヤの結晶みたいな物語だと思う。
 描かれているのは、おもに純愛。恋愛のテキストだろうか?
 ありえない男女の結末がけっこうある。ハッピーエンドにしても(たとえば「筒井筒」)、悲劇にしても(「梓弓」)。
 きっと、どのエピソードも「東下り」も、在原業平の実人生・体験そのままではないのだ。
 しかし、理想的な愛(男女間だけでなく、母と息子の愛情、男友達のありかたなど)、旅、人生なのにもかかわらず、読む者に共感を呼びおこす。一千年もむかしに、それらについての完璧な美学が確立されていたことに驚く。
 文章・ことばはとてもシンプルで単純だ。そのひとつひとつに深い意味、味わいを感じる。

 第六段の舞台、いわゆる「芥川」は、宮中のゴミを捨てた水路かもしれないそうだ。それはいやだ。自然のなかの川がいい。
 男の背中には女がいて、(きっと昔の日本人だから小柄なのだろう)、暗い夜、川原の草深い野を横切っているとき、白く輝く露を目にして問うのだ。
 「かれはなんぞ」
 のちに女を失った男は悲しむ。その和歌には、この問いかけのことが出てくる。ほんとうに愛していたとき、つかの間のふれあいは、後で愛惜してやまない美しい思い出になる。結晶化される。
 わたしは、本章段で女が問いかける箇所自体が、白露のようだ。葉上につかの間とどまる、白珠・真珠(パール)よりも美しい自然の露。

 現実の人間の恋愛、性愛関係には、欲や虚栄心がまつわり、汚いところ、泥のようなところがある。
 窓の外を見ると、うす青い、冬特有の夕方の空が広がっていた。プラチナの銀色と水色がまじったような色だ。美しい。
 そばには、アベマキの大木が枝をひろげて、すっくりと立っていた。
 天地人という考え方のあることが、わかる気がした。
 『枕草子』第一段(序章)には、まず天である空を描かれている。それから視点を地に降ろしてきて、地上に降る雨、そそがれる月光の風景。
 蛍、雁やカラス、秋の虫といった、人間以外の生き物の姿。それらが飛び交うのが地上なのだ。
 人間をとりまく地を描いたときに音が出てくるのも、興味深い。
 最後の冬の段落で、場面は室内にかわり、人間が感情を持ち、ざわざわと動く姿が描かれている。
 それに対抗したかもしれない『源氏物語』の「初音」の巻冒頭も、天地人と順番に筆をはこぶ(こちら)。その箇所の最後に描かれるのは、「生ける仏の御国」と称賛される紫上の邸宅(六条院の春の町)だ。源氏物語は、この人世を寿ぐ小説でもある。
 これら、むかしの人が書いたように、天は天で存在しているのだ。天は時の流れでもある。地は、地上の風景、この大地、山河、草木、岩、自然。
 
 これまで、天はわたしの歓びが表されたものであり、また、わたしに歓びを与えてくれるものだった。具体的には、青空や夕焼け空や、月や星の輝く夜空のことである。大げさに言えば、自分はそれらと共にあるような感覚をもっていた。
 しかし、つらかった時、その美しさが無情で冷酷なものに映った。とても遠い存在に思われた。
 また、これまで「天界に行きたい」というようなことを願っていた。あの空の果て、雲の向こうへ。苦しみ葛藤のない天に同化したくてたまらなかった。
 空に表されているような永遠の美しさと、それから、過ぎゆく時間・衰え消えていく自分の一生を超越した永遠の時間がほしかったのではないか。
 しかしこの日、天と人はとても離れている、別々の存在なのだと、はっきりわかった。
 
 『枕草子』は天を描いて始まっているけれど、あとには人間のことばかり記されている。これって、光を浴びた富士山があらわれる松竹や、高山のあらわれるパラマウント?の映画と同じか。
 清少納言は、人として生きて楽しいこと、よろこび、幸福、ときめき、うれしさなどを、草子いっぱいに詰めこんだのかもしれない。
 古今和歌集とか、万葉集萬葉集)っていう名前は、古今の歌を集めた本、万(よろず)の言の葉を集めた本っていう意味だと思う。それによれば、枕草子は、人であることの幸せ集だと思う。・・・。幸福の味のする飴(アメ)の袋だと思う。どちらも、たいへんダサイ名前だが。
 
 夜、テレビのチャンネルを変えていたら、またも、なんかいい映画に出会う。男が駅の構内を必死に走っている。
 重厚でしっかりしていて、全体から鈍い輝きが発せられているような感じ。輝き云々については、出てくるのが富豪の家の室内(地味だけど高価そうな家具・調度品がある)だからかもしれないが。
 ベランダ(テラス?)の手すりにもたれていた、シンプルなロングスカートの女優がいい。プロポーション、しぐさ。若いつやつやした美女ではないけれど、言動も表情も、とても女らしい。
 この女らしいっていうのは、一般的な女らしさとは違う。機知をめぐらしたり、憎んだり、暴力をふるったり、いろいろなことをする多面性、深さをもって、女性の本質がでているという感じのこと。
 列車や室内の殺人シーンは、ちょっと激しくて残酷。でも、いい。語弊を生むかもしれないけれど、なにか、ある種の快さみたいなのを感じたりもした。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』でヒースクリフが暴力をふるったり、暴れている場面を読んでいるときに似ているかも。
 (なお、ヒースクリフは圧倒的に強い印象があるが、リントンに殴られるところもある)
 映画は、富豪(憎々しい、ふてぶてしい顔をした中年男性)が列車で“芸術家”(ちょっと若い)を刺殺し、豪華な家に帰宅。妻(前述の女優)と抱き合ったりして和解、ディナーを約束。彼がシャワーを浴びているあいだ、妻がそいつの鞄を開け、なにかを知る。夫、来る。妻が怒って叫び、殴る。夫、暴れる。妻、ピストルを撃つ。男、足を広げて死ぬ。警察に正当防衛といわれる。おわり。
 芸術家ヴィーゴ・モーテンセン、夫マイケル・ダグラス、妻グウィネス・パルトロー(パルトロウ)、1998年、監督アンドリュー・デイビス  
 『ダイヤルM』
 

 そういえばお正月に、ピンク色の仔ブタの映画を見た。だいたい2回目。
 心温まるコメディーというより、キャラクターに対する皮肉のまじった鋭い描き方が好きだ。たとえば、牧羊犬レックス(レック)の堅物で、家長という立場が好きな性格。犬と羊の見解の相違とか。
 冷たさ、ブラックユーモアのまじったところも気になる。
 1だったら、都会に住んでいるらしい、ホゲット夫妻とぎくしゃくした関係の娘家族とか。(しかし、あとでクリスマスプレゼントのFAXが大活躍)
 2はしょっぱなから、おじいさん(アーサー・ホゲット氏)が井戸でえらい目に遭う。患者としての描き方は、嘲笑にも思える。黒すぎる。
 また、寂れたホテル(零落した貴族の邸みたいでもある)に役所の人間がやってきて、オランウータンの“紳士”やチンパンジーの家族、犬、猫を連れて行くシーンは、ナチスの収容を想起させられた。泣きたくさせるのもお手の物、という感じだ。
 2では、ごみごみして喧噪と無関心、若者に満ちた都会が描かれる。1の舞台、ホゲット夫妻の家のまわりは緑に満ちた田舎。家はすてきな造りをしている。しかし、あまりに美しくて、理想郷、ファンタジーの中にしかない場所のようだ。それに昔ながらのやりかたの農家の後継者はなく(娘婿は冷たそうな人)、いずれ失われるのだろうし。
 ジェームズ・クロムウェル、マグダ・ズバンスキー(エズメ)、監督クリス・ヌーナン、1995年、1999年、オーストラリア。
 『ベイブ』、続編『都会へ行く』

 やっぱり田舎の娯楽はテレビらしい。