http://www.geocities.jp/utataneni/art/new.htmlで加筆訂正します
『開館30周年記念 西洋の誘惑 印象派からシュルレアリスムまで −近代美術館の収集とその検証−』 群馬県立近代美術館 9/18―11/3
“群馬新聞”である上毛新聞の記事「回顧2004」〔美術〕にこんな文があった。
「二十周年記念の「印象派展」で記録した七万五千人と比較すると、隔世の感がある。/(略)都内美術館の盛況ぶりを考えると、美術ファンが中央回帰しているか、地域格差が広がっているのか考えさせられる。」(永井崇)
そう、県立美術館の入場者は減っているし、これからはさらに衰微の一途をたどるかもしれない。
「開館30周年記念 西洋の誘惑」から帰ってきた知人は怒っていた。あの内容で1000円。知人は「美術館は好き」と言うふつうの人だ。
わたしは記事を読んで、当たり前だと思った。都内の美術館には、もっと安価でありながら、いまのわたしと強く結びつき、自分に圧倒的な光を与えてくれるような展覧会がある。わたしは自分をいまの時代とつながらせ、心のなかに眠っていたものを呼び起こし、「ああ、こういうものに出会いたかったのだ」と歓声を上げさせてくれるようなものに出会いたい。
そういう作品・アートは、激しい歓びと、深い苦しみ、痛さを味あわせる。
美術、美術史を勉強したいのではない。歴史上の名画を見たいのではない。
そして(ここが大事なのだけど)、わたしたち“ふつうの人”はケチなのだ。ユニクロの新製品をチェックし、何年もまえの服を着まわし、健康を支える毎日の昼食代をけちり、ベストセラーは図書館で待って借り、娯楽・暇つぶしはテレビですませ、居酒屋での飲み会を味わう。
・・・とはいえ、わたしが出かけなくなった本当の理由は、出無精だからだけど。それに、有名で、流行っていて、人気の物が大好きなのだ。全国紙がカラー写真を配して大宣伝している、都内の大展覧会とか(!)
本展は、絵自体はよかった。遠藤彰子展とはべつの心地よさがあった。室内にかけて、楽しみたいような絵が多かった。
ドガ「三人の肖像」
セザンヌ「ジャ・ド・ブーファン」
アルマン・ギョーマン「クローザン地方、ブリガン橋」 丘上の古城、岩山、川。描かれた風景が好きだ。クルーズ渓谷というらしい。
アンリ=エドモン・クロス「森の風景」 印象主義の点描。ゆらめく木々がいい。
アンリ・ル・シダネル「夕暮の小卓」 遠藤彰子の絵を切りとったみたい。
ポール・シニャック「ロッテルダム、蒸気」 山下清のちぎり絵のほうがうまいかも。
宗教画はこうじゃなくて、明るく色鮮やか、華麗でないとだめだ、と思ったら、ルオー「法廷」 ルオーってわかったら、これでいい、と思ってしまった。
キース・ヴァン・ドンゲン「羽飾り帽の婦人」 帽子の青、赤、ピンク、緑の羽のせいか、ほしい絵。婦人は娼婦だったか。
デュフィ「ニースの窓辺」 メモに「わかる色。内容も明るい」とある。意味不明。明快で謎がないということか。
エーリッヒ・ヘッケル「木彫りのある静物」 エジプトの木彫りか? 自分が店をもったら、飾りたい。
ローランサン「接吻」
十代のころにも見たことあって、柔らかくパステル調で透明感のある青とピンク、グレーの色遣いが好ましかった。しかしこの日、傑作だ、と思った。すくなくとも、本展では、この冷たい質感におおわれたこの絵がいちばんの傑作。美味しい水のようだ。幸福の味がする一滴だ。
モディリアーニ「婦人像」所蔵先未記入
メモに「この中ではいい」とある。どういうこと? 黒い服を着、茶色、オレンジ色の肌をした首長人。たしかに好きだ。
「サロメ」パスキン
深く印象に残った絵。ふっくらとした頬は少女を思わせる。ごく稚(おさな)いサロメ。成人男性の首(ヨハネ)を足元において、イスに座り、放心しているようだ。わたしにはサロメもこのとき、精神的に死んだのだと思った。愛する男の首を手に入れたサロメよりも、死んだ男の首のほうが幸せな表情をうかべている。
カタログには「ファム・ファタール(宿命の女)の冷酷さ」とかあった。そうなの?
モイーズ・キスリング「ジョゼット」 本展のポスターにもなっている絵。ポスターを見たときから、とてもいいと思った。黒髪で、中国服みたいなの(スーツ)を着ている。画家は日本人だと思いこんでいた。生身の人間というより、人形の少女のよう。冷たい、きりりとした瞳。形式的な描き方の前髪。なぜか、会田誠の絵を思った。
ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ「聖ジュヌヴィエーヴの幼少期」
ジャンヌ・ダルク? フレスコ画みたいな絵。端正でいい。なんか背景がジョット(ジオット)みたい。
エドワード・バーン・ジョーンズ「フラワーブック」
数年前、東京でこのポストカード集を買った。作家名は知らなかったけど、とてもいいと思ったのだ。この日、初めて生(ナマ)を見た。やっぱりいい。祭壇画の一部みたい。「春の鍵」はウンブリア州立美術館(イタリア・ペルージャ)にあったピエロ・デラ・フランチェスカの祭壇画を思い出させた。
(後日、つづきを書きます)
作品をいいと思う、その作家のことを知りたくなる。下のパネル(プレート)を見てみる。印字されている内容がワカンネー! それに知りたいのはそういうことじゃない!
「なんか切り絵みたい」「リトグラフだからね」という会話を交わしていたお客さんあり。リトグラフをなんだと思っているのか。もちろん、わたしだって知らない。知識を補ってくれる物がほしい。
ふつうの人でもなにかを知っているし、もっと知りたいと思っている。
パネルは教科書的、専門用語、聞いたこともない固有名詞の羅列。作品からもらった幸福感は増さなかった。
はじめにも批判めいたことを書いたけど、実はこういうなつかしくて豊かな味のする絵画展も好きだ。
心配なのは、入場者数を確保しようとするあまり、美術館が、行政が保守的に反動的になること。たしかに会田誠の“私室”は汚かった(こちら)。
わたしにとって、未知の作品はいつもどぎまぎさせる。「こんな不道徳な、反倫理的なものを耽溺していいのだろうか」と不安にさせ、おびえさせる。新しいものは、闇の中に明るい光がひらめき、強い風が吹きまくり、いろんなものがぐるぐると混じり合っているようなものだ。それを愛することは怖ろしい。自分のいる場所がぐらぐらと揺れ、境界が動き、地図が変わる。
わたしはきわめて保守的だ。
いわゆる現代美術をみていると、気恥ずかしくなったりする。会田エディター(キュレイターだったかのか?)のもそう。たぶん、多くの入館者もそう。そして遠のいていくのかも知れない。
でも、“会田マンション”は、本当に汚かったのだ。そのために機知に富んで、すばらしく才能に満ちた作品も、いまとなっては、わたしの記憶の中に埋もれてしまった。
ただし、となりの大谷有花の作品のことは、強く印象に残っている。孤高で、清々しかったから。清冽な空気に満ちた空間だった。無機質な本館の建築がすばらしく思えた。
ああいう、現代と切り結ぶ傑作を見せてくれることを、これからも続けてほしい。一般の人のためにも、作家のためにも。あ、現代作家はアーティストとかクリエイターと呼ぶんだろうか。そのくらい知らないのである。