映画、ブロンテ、チェーホフ

http://www.geocities.jp/utataneni/nature/new.htmlで加筆訂正します


 旅行会社からパンフレットがとどいていた。その冊子には色鮮やかな世界の国々の風景、人々の写真がいっぱい。文章も魅力的な空間へと誘う。

 列記されているツアーには、ウズベキスタン旅行、ギアナ高地紀行、ガラパゴス諸島クルーズまである。わたしは「日本の一隅の山村から、世界中の山河、大海の果てのどんな秘境へでも行けるんだ」という気持ちになった。

 ふと冷静になってお財布のなかを思い浮かべた。もちろん、わたしには行けはしない。厳しい現実がはっきりつきつけられた。
 旅行にしろ、そのほかの商品、システムにしろ、豊かなものに囲まれている。しかし、豊かな社会の余滴、あまった滴(しずく)を片田舎で仰いで飲み、生きている感じがする。


 新宿副都心を撮りつづけた写真が新聞にのっていた(「西新宿定点撮影写真展 脈動する超高層都市、激動記録35年」企画・中西元男、撮影・山田 脩二ら)。1970年、そこにビルはなかったのだ。何かもう昔から、ビルが林立していたように思いこんでいた。
 数葉の写真は、どんどん高層ビルが立ち並び、わたしの東京のイメージに近づいていった様子を示していた。いまの風景は、ビルという、かわいらしい言葉ではなく、超高層建築都市という、なにかわけの分からない力が働いていそうな空間をあらわす言葉のほうがしっくりくる。

 といっても、実はそこにはそんな不思議な力や現象、何もないのかもしれない。

 ところで、地方都市はさびれていると聞く。少なくとも、本県のJRの駅前はそうである。県都(県庁所在地のことである)の大きなアーケード商店街(ナントカ銀座)のがらんとした廃墟ぶり。もう何年も行っていないから具体的にはわからないけど。
 “マチ”自体は郊外に店舗が集中しつつあって、豊かさは変わっていないのかもしれない。

 でも、都市郊外の田舎、田園地帯、山村、僻地(わたしが通っていた学校の分類)はどうだろうか。農業という目的を失いつつあって、本当に衰退しようとしているのではないか。

 それは、わたし自身が暮らしている場所について、こんなことを思ったからでもある。
 「山あいの宿屋だと思って、縁側でくつろごう」(数年前の夏)
 「平日は眠りに帰ってきて、休日は野山川沼を散歩して遊びたい」
 「家が山をバックにして、近所と隣り合っていない風景は、別荘の村みたい」(先日の月夜、散歩して)

 憩い、遊び、楽しみ歓びを汲みあげる場所として耽溺する。それは新しい態度ではない。19世紀半ば、イギリスはヨークシャーの荒野(ムア)に引きこもったいわば“ニート”のエミリー・ブロンテ。しっとりとして色あざやかな自然(わたしのイメージである)のプリンス・エドワード島アン・シャーリー赤毛のアン)。

 美しいリンゴの花咲く農場に住み続けるアンは、作中の人物だ。作者ルーシー・モード・モンゴメリは、“負け犬”にならないことを望み、現実的な方法を模索して島を出て行ったように思える。

 女性はここ百年ばかり、どうやったら、美しい山河に抱かれた故郷と離れずにすむか、悩んできたのではないか。そう思いたい。

 ブロンテの『嵐が丘』ではラスト、主人公の子孫たちが土地と家屋を相続する。…相続、そういう手段をとれることが大事だ。
 ただ、子孫のカップルは、それまで小説の舞台となった丘と邸を離れ、別の場所で新婚生活を始める。舞台の圏内にあったギマトンの教会、墓地(そこに主人公たちは眠っている。ヒースクリフとキャサリンのことだ。リントンも埋葬されているけど、印象は薄い。彼の魂はすぐに気化してしまったのではないかと思えるほどだ)は荒れて崩れ、消えようとしている。

 そういう放棄、荒廃によって時間の流れのなかに埋没すること、風化すること。しかし荒廃、風化によってかえって、嵐が丘という極めて魅力的な空間は失われず、すばらしいまま輝いて永遠に存在する。

 ブロンテは、心の故郷との別離をそのように、作品のなかで行ったのではないか。モンゴメリもそうかもしれない。美しい自然世界との別離は、作品を書くことによる新たな出会い、創作による永久保存しかないのだ。美しい記念碑を築くことなのだ。

 では、わたしはどうしたらいいのだろう。

 還暦のわたし、古稀喜寿、米寿のわたしが、どこで何を思っているのか、想像できない(即席ラーメンばかり食べている人間が生きていればであるが)








 テレビをつけたら面白そうな映画をやっていた。最後まで見てしまった。子どものアイスホッケーチームが世界選手権で優勝する。
 先がわかる展開、伏線、設定ではある。選手には、めがねをかけて貧相な体格のアジア系(「ケン」 でも、名字からすると日本人ではなさそう。チャイニーズ・中国系らしい)がいたり、ストリートの黒人少年が入ったり、勝ち気な少女がいたり。

 アイスランドチームのコーチ、監督(カーステン・ノーガード?)は、オールバックの髪型、黒っぽいスーツで、いかにも有能で冷徹な人間ぽかったり。
 ラフな格好で、自由と個性を重んじる、落ちこぼれの寄せ集めチームが、USAチームとして世界一になるわけである。うーん、逆に差別的。

 (ファイナルの相手がロシアではないのは、売り上げのためか? アイスランドは人口少ない)
 でも、いろいろがうまく織りこまれていて引きこまれる。白い氷上のリンクを玉(? すいません)が飛び交う試合のシーンも、スピード感がある。

 音楽もいい。観客がクイーン(Queen)の曲(ウィ−・ウィル・ロック・ユー WE WILL ROCK YOU)を歌ったりする。
 ブリトニー・スピアーズビヨンセ、ピンクが、ローマ時代のコロシアムで歌う飲料会社のCMが最初ではなかったのだ。
 ラストでは子供たちが「伝説のチャンピオン」(WE ARE THE CHAMPIONS )を歌ったかも。
 勝ち気な少女、マーガリート・モロー?。甘い顔のコーチ・ボンベイ役、エミリオ・エステヴェス(エステベス)。最後ベンチに残った少年、ジョシュア・ジャクソン?。アイスランドチームの監督、彼のいつもそばにいる女も冷たい感じでよかった。   
 
 1994年、監督サム・ワイスマン、制作会社ウォルト・ディズニー、映画音楽J・A・C・レッドフォード、撮影マーク・アーウィン、脚本スティーヴン・ブリル
 『D2 マイティ・ダック 飛べないアヒル』(THE MIGHTY DUCKS)

 
 アントン・チェーホフの『桜の園』の再読おわる。すこし前、『結婚申込み』を読んだ。巧みな喜劇だったけど、『三人姉妹』『桜の園』のほうが傑作だ。

 今ちょうど明け方の冷えで、零下三度の寒さですが、桜の花は満開ですよ。

 ロシアじゅうが、われわれの庭なんです。大地は宏大(こうだい)で美しい。すばらしい場所なんか、どっさりありますよ。
 最初のせりふは執事で「二十二の不仕合わせ」をぐちるエピホードフ。つぎのは元家庭教師で万年学生、さいごにはアーニャを連れ出すトロフィーモフ。わたしは二人とも俗っぽくてきらいだ。しかし、わたしの心に染みこんで、心の中いっぱいに広がるせりふも言うのだ。

 ラネーフスカヤ夫人(愛称リューバ)と兄ガーエフには、愛おしさを感じる。叙情的で、衰退し落ちぶれ、滅びていくやさしい人たち。しかし、ラネーフスカヤは意志の弱い浪費家、ガーエフは理想を熱烈に演説してしまう浮いた人なのに。

 かつて使われていた百姓の息子で、“桜の園”を落札し、分譲別荘地造成のため、桜をすべて伐採するロパーヒンは成り上がり者だ。しかし、彼のせりふからは、誠実さも内省的な部分ももつ人間性が好ましくなる。

 わたしが読んだ物、チェーホフが書いた物はせりふばかりだ。せりふばかりの薄い本から、いろんなことが伝えられる。戯曲ってすごい。

 作者チェーホフが万能の人に思える。書きたいことを的確な言葉で書ける人。いろいろなせりふ、あるいは、せりふのなかの数節によって、登場人物たちに多面性が与えられる。ひとりの人間に愚かさと美しさが表され、わたしは魅了される。

 初めて文章の技術に関心をもった気がする。高校生でも優れた子は、文章表現について考えるそうである。自分は遅れている。


 ワーリャが好きだ。ロパーヒンと結婚できるかもしれない最後の場面でも、用事が目的であるふりをして避けてしまうところ、わかる気がする。自分を抑制し、夢のほうへ向かわないこと。彼女が口にする聖地巡礼の願いは、葛藤苦しみのない世界に逃れたい、という願いだろうか。
 それでいて、働きづめに働いて時間を気にしているところは、ロパーヒンにそっくりなのだ。哀れ。










 牛伏山の遊歩道を散歩。雪が溶けていず、最近降ったかのようなところもあった。しかし白い雪の面に、人の足跡がつづいていた。
 犬は走り回り、顔をすりつけ、雪をほおばった。何でそんなに食べるのか。寒くもないらしい。
 あたりは茶色の落ち葉が積もっている。山肌も、峰の岩も、木の形もよく見える。冬の山林は明るくて風通しがよく、気持ちいい。好ましい。



道に倒れた木
    
    崖の上






 テレビをつけたらやっていた映画を見てしまう。イギリスのスパイがドイツのスパイを捜して殺そうとしている。
 べつの人(品のある老人)を山頂で突き落としてしまう。イギリスのスパイは夫婦を装ったふたりと、自分を一流のスパイだと思っている「将軍」(老人を突き落とす。顔は二枚目の反対。彫りの深い欧米人ぽくない顔。愛嬌のある丸顔)
 “夫婦”の妻が怒っているとき、失望しているとき、悲しみに沈んでいるときの表情がいい。『欲望という名の電車』のブランチ役、ビビアン・リーを思い出す。ただ、彼女が「将軍」を殺すのかと思っていたら、そうはならなかった。
 トルコでのイギリス軍(?)による列車爆撃後のラストには、ちょっと入りこめない。都合よくて脳天気な感じがする。
 妻の相手役は老けている感じ。彼よりも、爆撃のとき、「ドイツのスパイがイギリス人女性を助けようとする。おもしろいじゃないか」とか「君など愛していない。残念だがね」とかいうドイツのスパイ役がかっこいい。
 老人が殺されるときに犬が鳴くところも心に残った。見ているときはかわいそう、今は怖い。
 白黒映画。原作、サマセット・モーム。人まちがいで殺害された老人、パーシー・マーモント。「将軍」、ビーター・ローレ。相手役の俳優(主役らしい)ジョン・ギールグッド。“妻”、エルサ役マデリーン(マデリン)・キャロル。ドイツのスパイ役、ロバート・ヤング
 間諜最後の日
 監督は『鳥』の監督アルフレッド・ヒッチコックなのでびっくり。1936年であることにも。

 映画につづいて、ラップランドのトナカイ料理をとりあげた番組に見入ってしまう。中心的な都市(スウェーデンのキルナ?)の人口が2万6千人(?)という少なさに驚いたが、一面雪ばかりの風景が美しい。針葉樹林も魅力的だと思う。
 平らだったり、起伏のある雪原、丘。薄明るい灰色の野外。単調ではない。短い日照時間のなかで、この風景はどのように変化するのだろう。
 画家、ジョージア・オキーフが住んでいたアメリカの平原(ニューメキシコ州のサンタフェ(サンタ・フェ)郊外アビキューらしい)を思った。赤い岩山があって、いつも晴れて乾燥していそうな草原だった。オキーフはそこでハーブを摘んだり、新鮮な食材を料理して、暮らしを楽しんで死んだのだ(とわたしは思っている)