山山・「桜の森の満開の下」

http://www.geocities.jp/utataneni/nature/new.htmlで加筆訂正します


 元日。お米の売り上げのごく一部をもらう。「これがわたしのお年玉だ」と思う。


 昼間、ひさしぶりに裏山を散歩。あかるい日ざしのあたる山林は気持ちよかった。積もった落ち葉はあたたかそう。
 日陰の斜面に、白い雪が壁のように残っている。
 坂道をのぼって、丘の上に出る。子どものころ、山に囲まれた田んぼの村を見て、「こんな狭いところで育ったのか」とショックを受けた。牛伏山の標高(491メートル)とは比べ物にならないけれど、やはり感慨が湧く。

 つぎの日も裏山へ行く。こんなにいい所が身近にあることを忘れていた。
 なにもしていなかった春か夏、緑色の林の中を歩き回って、自分としては楽しかったこともあったのに。






 日が沈んで暗くなったころ、丘を歩いた。むかし、牧草地。そのあと、野原だったところだ。

 あのころは、丸くふくらんだ丘の野のうえで、町や市部の灯りがまたたくのを見ていたこともあった。

 また昼間、建てこんだ家々に、「人間てなんのために存在しているのだろう? 宇宙ってなんのためにあるのだろう? わたし達はなぜ存在しているのだろう?」と不思議に思ったこともあった。10代後半だった。

 また、野原と畑のあいだの狭い小道(軽トラックが一台しか通れない幅)にすわって、青空や夕焼けを見ていたこともあった。雲が軍団をつくって戦争に向かったり、あるいは必死に逃げている天界の生き物に見えたりした。そばには、茶色い犬がいた。

 あのころは、桑畑のあいだを昔のコンクリートの白い小道が、起伏に沿って続いている丘だった。

 夏がちかづくと、桑の枝は伸びてジャングルのようになり、薄暗いトンネルとなった下には赤黒いドドメの実が落ちて匂っていた。
 道の途中に、栗の木が生えていた。大きくはないけれど、梢がきれいな球体をしていて、秋冬は見ほれた木だった。
 道がくだる所の山林には、エゴノキがあった。うすぐらい夕方、たくさんの白い小さな花が美しかった。花は、道にも散っていた。そこにクマンバチが落ちてきて、そのまま死んでしまったことがあった。
 冬の夜中、皆既月食を見にきたとき、茶色い兎(ウサギ)が道を飛んで横切った。


 …ああ、野原のはしに沿って、カーブしながら続いていた道もなつかしい。春、盛り上がるように咲く白いノイバラの花々が美しかった。
 桜の木もあった。そのあたりで、養豚場から抜け出たらしいピンク色のブタに遭遇したことも、なつかしい。
 あのあたりの山の土の斜面は、夕日に照らされて赤くなったっけ。
 それから、丘をくだる道! あの道からは多くのものを教えてもらった。とくに秋。紫色の野菊(アズマギク?)、紫色のヤマハッカ(? 山薄荷)、ヒヨドリジョウゴの赤い実、緑色の実。花は可憐、幹は華麗なインクベリー。
 それから、美しく黄葉した枝。わたしは音楽なんか聞かないのに、「哀切な音楽が聞こえてくるようだ」と思った。

 


・・・・・・思い出すときりがない。夢の中にも変形して出てきた野原の丘だ。大事な存在だったのだ。だったのだ。
 1年前の秋、封鎖され、資材置き場になっている(こちら)。遠くからは、頂に緑が無くなり、土が削られて変わってしまった様が目に入る。そのたびにドキッとした。
 この日、久しぶりに歩いた。野原にはきれいな石垣ができていた。狭い道から二車線で歩道つきに変わった車道は、あいかわらず立派。でも、前にも書いたように、むかし抱いたような歓び、親愛感は湧かない。囲われた原を見ても、コンクリートに覆われた墓場かなにかのように感じる。思い出もよみがえらない。
 ぜんぜん別の場所みたいだ。この丘は、死んで、固まってしまって、わたしとは全く切り離された世界になってしまった。ただただ、足で歩くためだけの道になってしまった。往復した。

 小学校にも入っていなかったころ、ここの茶色い野原で父親とかくれんぼをした。その時は、黒い犬がいた。10歳にならないころ、青い草の波(たぶん牧草)の上でお弁当を食べた。そういう幸福な思い出で始まって、こんなふうに味気なく終わるなんて。
 土地を人間が所有することはしかたがない。私有地であることは尊重しなくてはならない。でも、親愛的な自然、よりそってくれるような自然が永久に失われることはイヤだ。
 自分は楽しい遊び場をなくして、喚いているだけだろうか。







 翌日は、山のあいだの小道を通って、となりの地区へ散歩。久しぶりに、そこの沼(ため池)に寄った。
 山に囲まれて、枯れて白っぽくなった葦かヨシが広がっている沼だ。時刻は夕方5時すぎ。人はほかにいない。薄暗くて、寒い。
 一面に氷が張っていた。ぜんたいが緑色に見えた。端っこは、真っ白だった。美しかった。「恋って人生を生き直すことだ、美しく感じることだ」と思う。 




 前書いたように
こちら)、夕焼けの空が美しい。気がつくと、西の山のうえの空に、朱色の光がたまっている。
 昼間の青空も美しい。
 でも、わたしが住んでいるあたりの山も見ている。高校のときから、市街地に出てくるようになったが、ときどき窓の向こうに山を探している。いまも。
 群馬県を代表するような、大きな赤城山榛名山も、鉢が逆さになったようなきれいな火山・浅間山も、白い雪をいただく険しい峰の谷川岳武尊山もきれいだ。
 でも、わたしが縋るように目を向けるのは、なんてことない低山。白い雪に覆われて神々しく見えることもない。たくさんの山(関東山地?)に埋没している、ほとんど無名の山。
 しかも、市街地の高い建物で見えない。
 でも、なつかしくて大切な存在。 「あそこに山がある」「帰る所はあそこだ」「はやく帰りたい」とよく思う。
 そういう気持ちと関連して、坂口安吾の『桜の森の満開の下』の一節が好きだ。


 目の前に昔の山々の姿が現れました。呼べば答えるようでした。


 いまちょっと読み返してみたら、山の魅力が書かれていて、山に帰る小説でもあるではないか。
 いい文が何ヶ所もあった。女に言われて都にでてくるものの、男はなじめず、その田舎者の行動は人に馬鹿にされる。


 山の獣や樹や川や鳥はうるさくはなかったがな、と彼は思いました。
 
 都にも山がありました。然し、山の上には寺があったり庵があったり、そして、そこには却って多くの人の往来がありました。山から都が一目に見えます。なんというたくさんの家だろう。そして、なんという汚い眺めだろう、と思いました。

 山へ帰ろう。山へ帰るのだ。なぜこの単純なことを忘れていたのだろう。(略)彼は悪夢のさめた思いがしました。救われた思いがしました。今までその知覚まで失っていた山の早春の匂いが身にせまって強く冷たく分るのでした。

 「俺は都に住んでいたくないだけなんだ」


 「俺は山でなきゃ住んでいられないのだ」


 首遊びをしている女はもちろん、下女(ビッコ)も都が好き。山にむしょうに惹きつけられ、離れたくない自分とだったら、主人公の男も幸せになれるのに、などと思ってしまった。

 しかし、わたしもこの「男」なのだ。同じ問題を抱えている。彼の気持ちに成り代わって読むと、彼の感動がよくわかるようだ。

 「私はお前と一緒でなきゃ生きていられないのだよ。」

 「だから、お前が山へ帰るなら、私も一緒に山へ帰るよ。私はたとえ一日でもお前と離れて生きていられないのだもの」
 女の目は涙にぬれていました。男の胸に顔を押しあてて熱い涙をながしました。

 「でもお前は山で暮せるかえ」

 「お前と一緒ならどこででも暮すことができるよ」
 (略)
 「お前と首と、どっちか一つを選ばなければならないなら、私は首をあきらめるよ」


 “お前と首と、どっちか一つを選ばなければならないなら、私は首をあきらめるよ”
 わたしもこんな言葉を言われてみたい。ただし、この言葉は主人公を利用するためのウソなのだが。

 「どこででも」という言葉は信じていけない、ということかな。