http://www.geocities.jp/utataneni/nature/new.htmlで加筆訂正します
夕食のあと、用事があって庭に出てみたら、黒い空に白い月が輝いていた。あたりの山と田んぼがうつくしい。青色というか、銀色の世界というか。
月夜はあまり明るくない、というだけのはずなのに、日のそそぐ昼間とも、電気の明かりともちがう気持ちになる。
そのまま散歩する。田のあぜ道、川沿いの草の道、山の道。行ってみたい所に向かい、ぶらぶらした。
耳が痛くなるくらい寒かったけれど、家につくと、1時間近くたっていた。思い立って、そのまま歩き出したので、携帯電話も時計も持っていなかった。
「ナイト・ウォークと呼ぶと、散歩よりかっこいいかもしれない」とくだらないことも思った。
スケッチブックを開いて、そのときの気持ちにあうような色で水玉模様(ドット)を描くことがある。赤やオレンジ、黄色で塗るようになると、「自分は元気になったな」と思ってやめる。
暖色系で前向きになるなんて、単純かもしれないけど、一人で手軽にできるセラピーみたいなものではないだろうか。
石も赤っぽい(えんじ色の)石が好きで、机の上にいくつか転がっている。赤と補色の関係にある緑色(うすい緑色)の石や、白っぽい石にも惹かれる。
ことしも野を這う火を見た。「紅蓮の炎」という言葉があるけれど、火はオレンジ色や黄色、むしろ透明な金色・黄金(こがね)色といえるのではないだろうか。
いつもながら、「火は美しい」とまた思った。
世界を構成するという四大元素の精霊と友だちになれるのなら、やっぱりサラマンダーがいい(土はノーム、風はシルフ、水はウンディーネ(ニンフ)らしい)
石のことが気になって探したら、書き物机の一隅には、小石がごろごろ。台にしている机には、中くらいの石がごろごろ。床に目をやったら、ふつうは戸外にしかないような大きさの石が数個。ごろんごろんと転がっていた。
自分の部屋だが、あぜんとした。そんな風になっていたなんて、意識したことがなかった。
星でも絵でも石でも「光り物」が好きだと思っていた。しかし石は探してみると、自分の身近にはなかった。
ただ、水色の蛍石(ホタルイシ)や、ピンク色の紅水晶、茶色や緑や青い瑪瑙(メノウ)の小石は、ガラスの小さなボールに入れていたことがある。透明な色石が好きだったのかもしれない。
机が片づいたので、えんじ色(赤紫)の石・チャートと、黒い火山弾(だと思う)を飾ってみた。これまで、紙などに埋もれていたのだ。
チャートは丸みを帯びた部分と、鋭く切れた縁(へり)とがある。火山弾は、ボールのようにふくれ、裂け目が入っている。真っ黒。どちらも惚れ惚れする。
初めてふたつを並べてみたら、ぴったり。美しい。
翌日は、白い石の切片を加えてみた。丸い米粒のようなフズリナの化石がつまった石灰石(?)。
赤、黒、白とそろい、これまた美しい。とくに日光が当たっているとき。
この日思いがけなく、黄鉄鉱と石英の結晶をいただいた。
黄鉄鉱は、鈍い輝きを放つ金色のかたまり。ところどころ、平らな断面が露出している。そこを見たり、さわるとドキドキする。持ったときの重さもいい。本のページを押さえておくのにも重宝。
石英の結晶は、かなり大きい。怪獣かなにかの生き物の頭蓋骨みたい。小さな六角形の結晶が上下から生成しており、鋭い歯がぎっしり生えた口に見えるのだ。
はじめ、茶水晶かと思った。結晶のおおくが茶色なので。でも、紅茶や羊羹(ヨウカン)のような濃さではなく、枯れ草の色っぽい。
怪獣の顎(アゴ)にあたる部分は、六角形の結晶ではないけれど、白い石英のかたまり。半透明だったり、白濁していたりする。光を反射して美しい。
雪の女王の住む宮殿みたいだ。
NHK−BS2(衛星第2)で放映されていた映画『スノークイーン』で、ブリジット・フォンダ演じる若く美貌の女王が、印象的だったのだ。まじめな女子大生みたいなゲルダよりもずっと。
(監督デヴィッド・ウー、2002年、アメリカ)
[これを書く過程で、フォンダが『リトル・ブッダ』の若い母親役、『キス・オブ・ザ・ドラゴン』のヒロインの娼婦役だったことを知る。わたしは目の記憶力がないらしい。
『リトル・ブッダ』のフォンダは、生まれ変わりといわれた息子をチベットに送り出しながらも、不安そうだった。釈迦のお母さん、摩耶夫人は出産後まもなく亡くなり、我が子と別れたからだろうか、と思って見ていた。
『リトル・ブッダ』の監督が『シェルタリング・スカイ』のベルナルド・ベルトルッチであることも知る。
・・・インターネットって、つくづくすごい。自分は山村の一室に座っていただけなのだから]
石やビンや、缶や箱なんかを飾るつもりだった机の端から端。気がついたら、本が並んでいた。 その整列のまえにも山ができはじめている。
しかし、すみれ色の函入り本『日本の詩歌』(中央公論社)が床に並んでいるのは、もっといけないだろう。
本棚を買うことにする。それは、欲望の釜を開けてしまうこと。本を置いていい空間をつくりだすのだから。いちばんいいのは、棚を足さないことなのに。
・・・欲しかったものはなく、家具屋さんを出る。すると、予想以上に雪が激しく降っているではないか。道は真っ白。
「車があまり走っていない」と、数日前、オレンジ色の外灯だけがついた霧の山道のときのように喜んだのもつかのま、峠は渋滞。ちっとも進まない。
路肩にとまっている車が何台もあった。Uターンする車が出る。気がついて、丘陵全体をまわる道にもどる。空いていた。ところが今度は国道で渋滞。路肩にとまっている大型トラックもある。
居住地域に入る。道はより白くなった。車はほとんど通らなかったらしい。ひさしぶりにギアを1速や2速のまま運転する。マニュアル車なのだ。
ゆとりが出てきたのか、「ケーキの上を移動しているようだ」と思った。
土や汚れがまじって茶色い筋は、モカチョコレート。木々はざっと粉砂糖がふりかけられたようだ。まわりの家々は、ケーキにのっている飾り。
雪があまり降らず、苦しめられないせいか、美しく見える。そんな楽しい気分も家のまえに来て消えた。小道は、タイヤの跡もみえないほど真っ白。ふっさりと雪が積もっている。
それは美しい風景だけど、のぼる身(上り坂なのだ)にしてみると怖ろしい。5センチありそう。家の前にして携帯電話をかける。
…スノータイヤの威力を実感した。雪が吸いつくような感じで無難に納屋(車庫)へ。
こんな雪行に数時間もついやした大みそか、大つごもり。
一人行動でも「孤舟蓑笠の翁 独り寒江の雪に釣る」だと、意味も人生の味わいもあるのだけど。
(前句「千山鳥飛ぶこと絶え 万径人蹤滅す」 柳宗元『江雪』 高校生のころ、音がいいので好きだった唐詩。
「こうせつ りゅうそうげん せんざんとりとぶことたえ ばんけいじんしょうめっす こしゅうさりゅうのおう ひとりかんこうのゆきにつる」
「千山鳥飛絶 万径人蹤滅 孤舟蓑笠翁 独釣寒江雪」)
高崎市内で、競走馬と書かれた、四角い箱みたいなトラックが横を通過。東へ曲がった。(もし馬が乗っていたとしたら)もう走り終わり、ここの競馬場で走ることはないのだろう。
わたしは中学生のころから、競馬の馬に興味があったけれど、結局一回も行ったことはなかった。
峠で渋滞していたとき、山の木々をぼーっと見ていた。樋口一葉は日記に『塵の中』というタイトルをつけたけれど、わたしは自分こそ塵だと思う。自分が塵だから、世の中が汚い。でも、このいま、空からきりなく舞い降りてくる白い雪は、塵である自分をそそいで清らかにしてくれる気がする。
男子高校生が「いい」といっていた詩句がついて出た。「汚れっちまった悲しみに 今日も小雪のふりかかる」
わたしには中原中也の当時の気持ちはわからない。しかし、ほとんど初めて読んだらよかった。
全文写してみる(原文は旧かな遣い。例「汚れつちまつた悲しみに」)
汚れっちまった悲しみに…… 汚れっちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れっちまった悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる 汚れっちまった悲しみは たとえば狐の革裘(かわごろも) 汚れっちまった悲しみは 小雪のかかってちぢこまる 汚れっちまった悲しみは なにのぞむなくねがうなく 汚れっちまった悲しみは 倦怠のうちに死を夢む 汚れっちまった悲しみに いたいたしくも怖気づき 汚れっちまった悲しみに なすところもなく日は暮れる…… |
こんなことを書いているうちに、FMラジオでカウントダウンがはじまって、2005年に変わっていた。
萬葉集(万葉集)最後の歌。
三年の春の正月の一日に、因幡の国の庁にして、饗(あえ)を国郡に司等(つかさら)に賜ふ宴の歌一首 新しき年の初めの初春のけふ降る雪のいや重け吉事 (あたらしき としのはじめの はつはるの きょうふるゆきの いやしけよごと) 右の一首は、守大伴宿彌家持作る。 |
国歌大観の番号:四五四〇(4540)
このとき759年(天平宝字3年)、大伴家持は42歳。彼が亡くなったのは68歳だという。