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『浮世床』『写楽』

http://www.geocities.jp/utataneni/nature/new.htmlからの転載です。今後はそちらで加筆訂正していきます。


 群馬県の榛名山へ。
 数年前の9月の朝、ここの野原にきたことがある。しゃがむと、茶色っぽい草原のあちこちに、色とりどりの花が咲いていた。露が降りて、全体がうるおっている感じがした。いまでは美しい記憶になっている。
 この日はもう草も木もあたりは白っぽかった。榛名富士に赤い紅葉が数本あって、目立っていた。車道を越えて、スルス岩の下も歩く。人はほとんどいない。
 ところが、榛名湖畔に寄ってみると、駐車場はいっぱい。家族連れなどが歩いている。偏りぶりにびっくり。
 湖の上にちょっとかかった橋を歩く。さざなみの様子、逆さに映りこんだ山々。やっぱり湖はおもしろい。
 オンマ岳のふもとの風穴に寄ろうとしたら、道が工事中。残念。夏はヨーグルトが気持ちよく冷えそうな涼しさだった。いまはどう感じるのだろう。「逆にあたたかいのではないか」と言われた。






 お米の籾摺り(もみすり)をてつだう。ゆっくりと動く機械である。
 お米を注いだり、紙袋を取り替えるあいまに、今年は式亭三馬の『浮世床』(日本古典集成)を読む。江戸時代後期、1813年に初編が刊行されたという。これはすこしまえ、ホームセンターに行ったらやっていた古本市で、日本古典文学全集『方丈記 徒然草 正法眼蔵随聞記 歎異抄』、日本古典集成『日本永代蔵』『新潮現代文学 58 山口瞳』とともに買ってしまったのだ(『浮世床』は山猫館書房)。
 去年だったか、『浮世風呂』をちょっと読んだ。それでこれも江戸の庶民の姿、考え方、習慣などを描き出したものかと思っていた。ところが、漢文学者が批判される。万葉調の国文学者が批判される。とんちんかんぶり、野暮なところが嗤われている。
 これって、彼らがあまりに書物の言葉に依っているからではないだろうか。書物の言葉でしゃべりだし、人に教えようとしている。そういう半可通の学者を滑稽に描いているが、三馬は学問のよさも知っているようだ。
 しかし、生きている言葉のよさ、人の喋る言葉、飛び交う会話こそ、有意義な豊かなものが生み出される、と価値を見いだしているようだ。学者が退場すると、庶民たちは自由で、笑いと世間知に富んだ会話を再開するのだ。
 三馬は口語を称賛し、表現として究めようとしていたらしい。わたしは尊敬した。一種の国粋主義かもしれない。庶民文化の落語も称賛している。
 同収録の『四十八癖』は、どんな典型的なタイプがくっきり描出されるのかと、タイトルから期待したが、とちゅうで飽きてしまった。独白体より、会話のほうがいいみたい。
 日本の江戸で三馬がこういう本を書いていたころ、イギリスでもジェイン・オースティン(ジェーン・オースチン)が人間の性格をはっきりとらえ、コミカルに描く本を書いていた。1813年は奇しくも、傑作『自負と偏見』(高慢と偏見)が出版された。オースティンの複雑な構成で、味わいのある恋愛小説とくらべると、「やっぱりJAはすごい!」と思った。
 今年は暑かったけれど、お米は量が多かった。



 『浮世床』では、庶民が落語(落とし咄)や歌舞伎、遊郭のことをふつうに喋っている。自分たちと等しい高さにある娯楽だったみたい。しかし今、それらは庶民の文化とはいえないだろう。高尚だったり、知識や教養の必要なものに変わってしまっている。音楽のジャンルでも、そういうものはある。俳句や和歌もそうかもしれない。 
 映画『写楽』は、歌舞伎が江戸の市中の人々の活気のなかにあったことを描き出そうとしていたのかも知れない。大道芸とのかかわりも。しかし、ふつうの人々とのつながりは、もう失われてしまったものだから、哀しい気がした。松竹創業100年記念協賛作品であるがゆえに一層。
 この映画自体は、絵としてよかった。赤い布の色が印象的。それから、歌舞伎小屋の舞台裏が描かれているところ。吉原を見れたこと。
 人は、葉月里緒菜がよかった! まだ花魁ではないのに、登場したときから別格という感じがした。こんなに魅力的だったとは。ただ、あまりせりふが無かったからかも知れないけど。
 ほかの俳優は有名な人ばかりなのに、あまり。期待してわざわざ見た(BS・NHK衛星映画劇場)からかも知れない。男優は、それぞれ目立ちすぎていた感じ。『桜の森の満開の下』もそうだったけど、岩下志麻って個性的でない気がする。
 葛飾北齋(北斎)とか、喜多川歌麿(佐野史郎 )、十遍舎一九(片岡鶴太郎 )、蔦屋重三郎、山東京伝(河原崎長一郎)といった有名な人物がでてくるのもおもしろい。

 でも、北齋(永澤俊矢)や歌麿はああいう性格ではないんではないかな、とけなすわけだ。わたしは。北斎がきたない長屋で子犬をかわいがっているのには納得。

 読み本を書きはじめたばかりの滝沢馬琴がストーリーとは関係ないのに何度か現れ、「水滸伝かぶれ」と批判されていた。
 やっぱり、東洲齋冩樂=阿波の能役者説がでてきた。この点の扱いは満足。舞台の袖でやおら横笛を吹く人物が、おわりのキャスト紹介によると日比野克彦なのでびっくりした。目がくりっとして可愛い。
 (篠田正浩監督、衣裳:朝倉摂、1995年)




 『浮世床』を買った日、家ですぐに読んだのは山口瞳の『江分利満氏の優雅な生活』。明るく軽やかな読み物だと思っていたのだ。ところがだんだん戦争のことが出てくる。敗戦文学、という言葉が浮かんでしまった。戦後の豊かで色鮮やかな生活の裏には、灰色の第二次世界大戦がべったりくっついているらしいのであった。
 本を買うのをやめようと思っていたら、古書市に出会ってしまったのだ。その後も、山猫館書房のお店で、『梁塵秘抄』、森類の『鴎外の子供たち―あとに残されたものの記録』ちくま文庫、田辺聖子の『蜻蛉日記をご一緒に』を買ってしまう。
 どれもよかった。とくに『梁塵秘抄』。『閑吟集』は前から好きだったけど、仏教歌がこんなに胸にじーんと来るものだとは。
 所有しなくてもパソコンの画面で読むこともできる時代だけど、やっぱり本はいい。いまは『平家物語』がほしい。



 このころ、山を歩いていない。見ていただけ。よく見たのは、トイレの窓から裏山の木。
 今年は紅葉が美しくない気がする。



12月


 2004/12/25up

 このころから、夕方の西の空に魅了された。光り輝くオレンジ色の雲の海も好きだけど、雲がない空もいいではないか。
 山のうえが薄い白や薄いオレンジ色になっている。お皿にしたいような色だ。
 空がだんだん暗い青になっていって、星が輝くのもいい。