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遠藤彰子展 混沌の力

遠藤さんの名前を訂正しました。恥ずかしいです・・・
http://www.geocities.jp/utataneni/art/new.htmlの転載です。今後はそちらで加筆訂正していきます。

『遠藤彰子 力強き生命の詩 ENDO Akiko−−Poetry of an Everlasting Life−−』  2004/8/28-10/3  府中市美術館



 NHK教育テレビの番組『新日曜美術館』の展覧会紹介コーナー「アートシーン」がきっかけだった。エッシャーみたいな、迷宮的な石造建築とそこを移動している少女の絵。エンドウなんとかという女性の絵だ、とは思った。

 最新作「とおい静けさ」に仰天。灰色の静的な小世界から、色鮮やかで動的な大画面へ。変貌ぶりに、「草間彌生みたい、狂ったみたいだ」

 それでいて、画中に繁茂している緑色の植物と、冬の白い冷たい空に惹きつけられた。紹介は短い時間だったけど、忘れられなかった。

 前にもこのコーナーで知った『神様のかくれんぼ 与勇輝展』(銀座松屋、2001年)もよかった。
 インターネットで検索してみると、なんと作家のホームページがある。それも、ここまで見せてしまっていいのか、と思うくらい、絵を拡大して見れたりする。エッセイも連載されている。そういう過剰さに、不安にもなった。

 新聞に評論家の文章が掲載され、大きく取りあげられた東京国立近代美術館の『琳派 RIMPA』展よりも、いまは心に残っている。 
 クリムトの絵画も用意して、新味を出そうとした「琳派」展も、常設展示の小倉遊亀も、古賀春江も、靉光も、藤田嗣治(「アッツ島玉砕」!)も、すばらしい。でも、今生きているこの人は、もっとすばらしいのではないか。
 エミリー・ブロンテ、樋口一葉、モーツァルト。人もわたしも神話が好きで、亡くなった人、喪ったものを神聖化しがちだ。
 それは聖像をつくるというより、鏡に映し出された自分の考えを見ていることかもしれない。亡くなった人に対しては、なにを言っても反論されないし、幻滅させられるようなスキャンダル、才能の枯渇による衰退、時代とのズレなども聞かなくてすむ。自分の愛をどっぷり注ぎこむことができるから。

 遠藤さんとおなじ世代の人間は身近にもいるけれど、彼女の精力的な活動の全貌、エネルギーがほとばしっている作品をおもうと、「自分はつくづく凡人の系譜なんだなあ」と実感した。
 今も心に強く残っている理由はやはり、作品の迫力だ。休日の府中の森公園では、おおくの人が運動していた。そんな外とはちがうタイプの大音響が、公園の一角の建物のなかには満ちていた。

 以下はメモに基づいて書いたが、話がごちゃごちゃになっている。すみません。
 
 絵のことしか考えていなかったので、しょっぱな、ボタンやらビーズやら、うそ真珠(だと思う)のアクセサリーやら、黒い羽なんかが埋めこまれたライオンの像にびっくりした(「獅子」)。とつぜん創作意欲が湧いて、「こういうの作りたい!」と思った。

 ほしい絵もあった。たとえば初期の「楽園の住人たち」
 1970年代のものは、平面的。色は濃く、あざやか。場所は緑濃い野外、ジャングル。動物と、ナントカ原人みたいな生命力ある人々が並んでいる。
 童話、童画みたい。そこにも部屋がでてくる。

 それから、わたしにとってはお馴染みの、迷宮の石造建築の空間へ。初期の作品群の中でも「街」(1976年)はかなりシンプル、明快。

 柱やアーチがたくさんある街は、イタリアのペルージャを思い出させる。しかし、ペルージャでありながら、現代都市なのだ。天界や地獄・煉獄みたいな、この世ならぬ世界や、宇宙に近い世界も取りこまれている。
 作り出された世界はにぎやかで混沌としているのだけど、会田誠より快い。なぜだろう。
 多くの作品に「すんごいいい!」と思った。いろいろな人物が、なつかしくもあり不思議な世界でそれぞれ行動している。現代のヒエロニムス・ボッシュ(ボッス、ボス)だ。


 煙突が林立し、配管の廻らされた工場町や、広場があって、人がいる。電車が通っている街。階段があって、電車のホームには人が集まっている。夕闇がせまり、オレンジ色の電灯がともる。

 こう書くとふつうだけど、夢の中みたいな変な世界なのだ。歪んでいるからかもしれないし、こういうところが人造物と自然の違いかもしれない。

 街や建物内部には走る人が配されたりしている。止まっている人はいない。ジョルジョ・デ・キリコを思った。

 でも、ボッシュやキリコや、大竹茂夫よりも、人がいくらか視線を交わし、抱擁して、あたたかい。広場では人々が遊んでいる。しかし共同体の絆を感じさせるピーテル・ブリューゲルよりは冷たい感じ。うすら寂しい。すこしの不安感。傾斜感。 

 「海匂ふそら」など、地球の強い重力をものともしない浮遊感のあるところは、女性のマルク・シャガールだ(シャガールの絵は、叙情的でパステル調がやさしいけれど、男性の情熱が籠もっている)。

 わたしは空を飛ぶ夢を見たことがある。また見たい切望している。山や、部屋の窓から飛び立って、世界を見たい、という願いもある。それを実現させてくれる。


 「翳をくぐる鳥」などには高速感もある。
 見る者が空気の妖精・エアリエル(アリエル)になって、画中の世界、セピア色だったりする不思議な国を堪能できる絵画群である。

 ゆがみかけた球体感。魚眼レンズに似た視界、建物の密集感。その視点が複眼のように、ひとつの画面にいくつか展開されているものもある。そういう空間を貫く直線の、あるいはカーブした道路。うがたれた、底の見えない深い青いプール、泉水。
 「ひとり午後にささやく」 うごき、うごき。画家って、静像ではなく、動きを愛しているのだなあ。
 海辺も描かれる。「入り江の笛」 崖っぷちと、しなう体。ああ、わたしも飛びこみたい。近くには輪舞(ろんど)。日本のアンリ・マティスだ、と思った。 


 奇妙な外観。きっと迷ってしまうだろう高さ深さをもち、全体像が把握できない建物、街。工場。それを見上げたり、見下ろす構図。
 それから、なつかしさを誘う電車、夕暮れ。空中での浮遊感、高速感。人間の食べ物であり、生命である大きな魚。
 いままで挙げた作家よりも、もっとも近いのがアニメの宮崎駿ではないか。『千と千尋の神隠し』を考えても、ずいぶん共通点がある。

 とはいえ、ものすごいメジャーと、マイナー。工房(現代では「スタジオ」という)による商品(ビデオ・DVD)や関連商品の大量生産と、個人制作・作品一点のみ、なのだ。

 作品は、完結していない感じを受ける。閉じていない。謎へむかって開かれている。
 細かく描かれていて、見つくせない絶望に駆られる。
 とくに街は、地図がこの世のどこにも存在しない街だ。地図なんか作れないのだ。ガイドブックを持たない旅人のように、この何だか寂しい都市に入っていく体験をする。

 そこには耳の垂れた犬がいたりする(「或る日」など)。
 犬は魔的な力をもった怪物、マモノにもなる。「黄昏の笛は鳴る」。燃えさかる炎と黒い犬の群。そこに少女が立っている。一番好きになった作品かもしれない。
 画面の左上隅にいろいろな鳥が満ちている「河に溶ける赤い蛇」も、鳥の群れがすばらしくて買ーいーたーい。
 (すごく有名な人には思えなかったから、「宝くじが当たったら買えるかも」などと思ったが、どれも所蔵されているのであった。当たり前である)
 鳥や、なふなふした犬が、怪鳥・怪獣・魔物にもなるのだ。

 テレビで惹かれた「とおい静けさ」はやはり圧巻だった。奥の部屋にある三幅対であった。
 以前の絵は、人はいるけれど、ガランとして広かった。それが左の「草の音」では、緑色の植物でいっぱいだ。巨大なトンボが飛んでいる。人が花に憩いて、カエルは人とおなじ大きさだ。人を超えるような春の自然の力。
 業火の夏。中央の「遠き日がかえらしむ」には、水から、真っ赤な炎が湧き上がっている。水と火。「こういうものが見たかったのだ」と思った。わたしはどちらも好きで、でも、反対の物だからと思いこんで、「どちらを選ぶか」で、迷っていたのだ。

 水、つる、木、枯れ木、草、空、火。ゆがみはここでは、渦巻きにもなっている。冬の凍てつく空。白い太陽。
 この3点はとてもうるさかった。たぶん、そのうるささ、大音響が生命の声、歓声なのだ。

 わたしもこのめくるめく世界で生きたい。わたしがフランダースの犬の主人公だったら、この絵を見て死にたい。
 

 遠藤さんの世界はボッスの一見静穏で平和な楽園とちがって、うるさい世界だ(「うるさい」より、いい表現があったらいいのだけど)。

 靉光がもし生きていたら、こんな不思議な生き物や世界を描いたかもしれない。

 この展覧会で、なんでわたしがイーゼンハイムの祭壇画(マティアス・グリューネヴァルト)を好きなのか、わかった気がした。
 人物がたくさんたくさん描かれている。どこも群衆だらけだ。人に満ちている。バチカンのシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの天井画みたい。

 でも、遠藤さんのは、あくまでも人の世界。それで思うのだけど、ミケランジェロが描いたように、神の世界は明快だ。摂理が通っているからか。シンプルで、乾いている。

 こちらは、動きすぎる。動きが群衆を作り、空間をゆがませ、悲劇と歓びが背中合わせになったような、影も光もある、ふしぎな混沌の世界を喚びだしている。


 大画面の作品が多く、見応えがあった。しかし、照明によって上方が光ってよく見えない物もあった。
 カタログ(図録)では「Oil Paintings」と分けられて「Another Works」とされたオブジェもよかった。先の、舞台美術みたいなライオン。絵が自由に描かれたガラスつき家具。祭壇画。あと粘土(彫塑)。小学校の時の林久男先生も言葉もいい。


貴女の絵は非常に個性の強い独自なものです
 絵画に於いてこの独自(オリヂナル)と言ふ事は大事なことであり、貴重なものなのですから自信をもって今後もやって下さい。
(優秀作品)




 わたしは今は、この画家のすばらしさがわかる。それはテレビや新聞にも寄っているかもしれない。小さな子どもに、こんな本質的な言葉を掛けてやれるだろうか。

 カタログは良心的だと思う。ただ、色が変わってしまっている。再現ではない。それで、ペルージャの街を気に入り、川瀬巴水の版画集を贈ってくれた友人には買わなかった。

 付録もあった。ホームページで公開されていた(?)制作日記も入っている。

 美術館の玄関近くには、人が集まっていた。なんと、流木アートがもらえるかもしれないのだ。そんな展覧会って、あるのだろうか?
 わたしも感想を書いた。遠藤さんに感動を伝えたかった。でも、汚い殴り書き。閉館で、時間がなかったし。

 関連企画もけっこうあった。実は参加したかったのだけど、国立近代美術館の常設展や、この美術館にたどり着くのに時間がかかって、間に合わなかったのだ。

 ホームページから、展覧会から、その周辺のことから、なにを見ても、作ることがすごく好きなのが伝わってくる。その感覚がほんの少しわかるだけに、うらやましい。
  付録「Akism」の印象的な言葉。


 今、大学の教え子達から「子供がいると絵が描けないのではないか」と質問されますが、「そんなことはない!」と胸を張って言っています
作品紹介より


 私が絵を描くのは、やはり現実が満足できないもので、いつも何かが足りなくて、隠されているものを表すことにより、欠けていると感じた物事を埋めようとする行為なのかもしれません。そしてそれが少しでも満たされたと感じたとき、私は嬉しいと思います。
(略)
いくら描いても描いた気がしないという不思議な感覚を絶えず味わっています。体力も精神も消耗しているのに、背中を押され続けている心境です。
 私自身、いかに現実を超えることが可能なのか。今後もそれを念じながら見えない世界を表出させてゆきたいと考えています

編集後記「刻ふりつむ。」

 がんばってください、遠藤彰子先生。
 (「先生」は尊敬をこめた言葉として使っています。ほかに思いつかないのです。)


 市立美術館だけど、県立美術館みたく立派。そして、たくさんの熱心なお客さんがいた。
 外に出ると夕暮れ。
 轟音を立てて、暗緑色のヘリコプターが降りてきた。プロペラが二つついている。物珍しさに向かうと、道を挟んで基地があるのだった。塀のすぐ向こうにヘリが止まっていた。公園側に人が集まって見ていた。
 1日4回飛来したりするらしい。米軍の基地からも来たりするらしい。小さな箱を運び出しているらしい。沖縄の大学に墜落した事件もあり、コースを変更してほしいという意見もあるらしい。自衛隊、軍隊、基地の問題を身近に感じた。

 公園には犬がいっぱい。ドッグランがあるので行ってみると、それはフェンスに囲まれた自由な競技場であった。
 池には張り紙「犬を入れないでください」 「水の広場は今月で廃止されます」
 まろやかな草丘があり、人が集っていた。気持ちよさそう。わたしもあそこで憩いたい。頂上に着く。犬を連れた人々の偶然発生的な集まりであった。ミニ犬村と化していた。ほとんどが小型犬。ミニチュアダックスフント。多頭飼いもいる。引き綱を離した人も多い。飼い主から離れないダックス。遠くまで駆けていくダックス。近くの犬のまわりを飛びまわってみても、気づいてもらえないダックス。伊藤若冲の晩年の絵「百犬図」を思い出した。あれには子犬の全てが描かれている。
 「犬をつないでください」という放送が流れる。

 竹橋から来るのは大変だった。新宿へちっとも着けないのだ。乗り継ぎの駅の間が遠かった。遠回りの路線に乗ったらしい。料金も増えた。駅員は最初、わたしのこと、無視しているのかな、と思うような態度だった。時間はどんどん過ぎ、「うわ〜ん」という気持ちだった。
 なつかしい駅を通過。あの時、あの大学の史学科考古学専攻に手続きしていたら、わたしは今、何をしていたろう。
 駅から美術館までは、迷いながら、せっせと進んだ。わたしのマラソンであった。
 帰りは落ち着いて駅まで向えた。せまい並木道。こんもり茂った木。あたりは静かで畑から虫の音がたくさん。都内の閑静な住宅地とは、こういう所をいうのだろうか。山がないのが残念だ。

 JRの駅前の書店。相変わらず、閉店前はレジに人が並んでいる。チェーホフをチェックするのを忘れた。夏に古本屋で『桜の園』『三人姉妹』を買って読み、気になっていたのに。40分では足りなかった。書店に1日いたいかも。展覧会に来るように、書店だけのために、東京に行くようになるのか。
 東京の街は夜でも人がたくさん。それが自宅に近づくと、わたしは無人の暗い山の道を車で走っている。へんな生活だ。