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J・オースティン映像化作品 私的リスト

http://www.geocities.jp/utataneni/Jane_Austen/the_audio-visual.html
の転載です。今後はそちらで加筆修正していきます。


JA小説の映像化作品 私的リスト

 ジェイン・オースティン(ジェーン・オースチン)は約200年前の作家ですが、その作品から現在、多くのものが誕生しています。そのうち、わたしが知ったものについての感想です。今後も追加していきます。




 テレビドラマ『高慢と偏見』イギリスのBBC製作

 日本ではNHKやケーブルテレビで放映。まさかテレビドラマに?と驚いて見た。
 そして、リジーはもっと美人なはず(失礼)、ダーシーを魅了したのはもっとすばらしい黒眼なはず(失礼)、という不満をもった。

 そのほか、想像とは違っていた容貌。
 ・ジェーン(エリザベスのお姉さん)

ぱっと見て一番に引きつけられる容貌ではあった。本場イギリス人にとっては、古代ギリシャ彫刻みたいな、ああいうハッキリした目鼻立ちが正統派美人なのか。

 ・シャーロット・ルーカス(牧師コリンズと結婚してしまった人)
 小説では「年は二十七、いまだかつて美貌の自信はたえてなかった」(22章。中野好夫訳/新潮文庫)などと、いい所がないように描かれているけれど、ドラマのシャーロットは出演者の中でいちばん私好みの容貌だった。

 裕福でない設定だからか、舞踏会?のシーンではいつも同じ髪型、髪飾り、ドレス。しかし似合っていた。

 ダーシーもわたしのイメージと違って、ファンの方には申し訳ないが、好みではなく、ダーシーの邸宅と庭・敷地(ペンバリー)もイメージしていたのよりすばらしくなかった。

 原作にないシーンでは、ダーシーが天然の泥沼に飛び込み(池にダイブしたとも言われている)、泳ぐところがよかった。しかし見ていた時は、「つぎは澄んだ美しい水中シーンが展開されるのか」と思いきや、中はけっこう不透明で、水底はどろどろ。こんなとこ泳ぐのか、と驚いた。
 そんな所をダーシーに泳がせるなんて、イギリスって案外土俗的、とか思った。逆に、真の意味で洗練されている、洒落たシーンかもしれない。

 もし美男ダーシーの泳ぐ水中が澄んで幻想的、あるいは神秘的なまでに美しかったら、オースティン作品ではないかもしれない。
  地位の低いエリザベスに毅然と拒絶された、高貴にして富裕なダーシー氏だが、彼女の言葉は胸中から消えなかった。ダーシーは帰館すると、突然あの沼へ飛び込み、力強く泳ぎきってサッと岸へ上がっていった(わたしの記憶)。

そこにわたしが『変わらなきゃ』というダーシーの気持ちを感じたのは、沼が心象風景に見えていたからだろう。ダーシーは自分の心を迂回・無視せずに向き合い、飛びこんで泳いだのではないか。

 原作にないこともあって、ある意味驚愕の沼シーンは、へんな喩えだが、新生ダーシーへの水を介したイニシエーション・通過儀式か(こう書くと、げえって感じだが…)
そんな「沼泳ぎ・横断」で精神的に生まれ変わったはずのダーシー。直後にエリザベスと遭遇しちゃったときは動揺をかくせず、おたおたとしていた。その様子には親愛感を感じる。はっきりいって可愛い。人間味がある。

そうすると、あの再会シーンは新しく誕生したダーシー氏(実年齢28歳でしたか?)がよちよちと歩みはじめた貴重な姿である。登場したとき板についていた、人を見下し、倣岸冷然とした態度でないところが「沼泳ぎ・横断」の効果なのか。なんだか可笑しい。
 リジーはびしょ濡れのダーシーと、お互い予期しなかった再会をするのだ。原作とは違うけれど、よかった。

 入浴シーンにも、「おおっ」と思った。原作に無い場面でもあるし、色っぽくてよかった気がする。あの辺りから、この人(俳優)でいいか、と納得しはじめたのかも。私はコリン・ファースをあのドラマで知った。
 また、当時のお風呂ってこうなのかと思ったのだった。


 えっ!?と思ったシーンは、ダーシーが2度目のプロポーズをし、リジーが承ける場面。ふたりの背後のすぐそばで農夫が仕事をしている。ダーシーはむろん、リジーも支配階級だから気にならないのか?
 もっと緑濃い、雰囲気のいい所に設定してもらいたかった。小説では翌日、「オーカム・マウント」という遠い丘に登るし。

 わたしは本がちょっと好きだから、小説を読んだときは、読書好きのメアリーの性格が「ここまで?」と思うほど悪く書かれているのが印象に残った。せっかく読書する少女が登場したと思ったら、描かれ方は問題外のキャラという感じで、ヒロインの妹なのにいい目を見ないで終わっているのだ。

 オースティンも読書は好きだろうに、と違和感を持った。いまでは、だからこそ、オースティンはさまざまな読書家のキャラクターを登場させ、滑稽に描いたのだと思う

しかしテレビドラマでは、容貌というか外見のことが印象に残っている。いくらオースティンが「不美人」と書いていても(第6章。訳・中野好夫『自負と偏見』新潮文庫)、メアリーは10代後半だ。メアリー自身も気づいていない若々しさ、少女らしさを発しているだろう。
 ところが‥‥ドラマのメアリーは、小脇に本をかかえて歩く背格好も、眼鏡のかけ方も、野暮っったくて貧相。失礼ながら、ちんちくりんであった

 これは、制作者が5人姉妹のキャラクターを際だたせるためにしたことだと思う。しかしそれによって、メアリーの本質が現れているように思った。テレビを見て、「変少女、変人少女」と思った。
 教養をこころがけているメアリーが、年齢に相応するようなうら若い女性・少女としてではなく、子ども、とくに頑固な女の子のような姿をとっていることに興味を引かれた。
 虚栄心のかたまりであるメアリーは、音楽と読書の「教養」をひけらかすチャンスを糧に生きているが、今日(こんにち)でも、そういう10代の女性は端から見ると、身体は年齢相応の色っぽさ・みずみずしさを発していず、何だかかさかさとしている。パーソナリティーのほうも幼稚でかたくな。わたしの印象では変少女なのかもしれない。
 一方、平凡な少女キティー(五女)は王冠型のヘアスタイルをして、しぐさも自然でかわいらしかった。この扱いに、示唆を受けたように思った。
 

 などと書いたが、原作にかなり忠実なドラマで、わたしの好きなミスター・ベネットはとりわけよかった。







 映画『いつか晴れた日に』

 というタイトルは、読書に生きてるような次女マリアン(メアリアン)が愛誦していた詩の一節だったか。(『ある晴れた日に』なら、日本では『マダム・バタフライ』『蝶々夫人』と混同されるからかもしれないし、パロディ以外では無いタイトルかもしれない)
 姉・エリナが小説『分別と多感』の想像より年長だったので、私もびっくりした。
 しかも、映画のエリナは生気がないというか、疲れている印象だった。両思いになった時ぱあっと変貌したので、そのための演技だったのかと感心はしたが。
 年齢は現代で考えれば、問題ない。しかし19歳の女性があまりにも現実的で冷静、というオースティンの設定がおもしろいので、かなり残念なエリナさんであった。
 そして、この映画の脚本を書いたのが、この長姉役のエマ・トンプソン。

 不満なシーンもある(出た!)
 ラストだったか。霧雨だか曇天の日に緑丘で、ウィロビーが馬にまたがり、エリナたちが住んでいた(いる?)家を見下ろすシーン。
 オースティンの小説には、その人物のなかでは生涯、完璧な理想像となった、という記述がある。しかし、その記述は人間のそんなアホさ、おもしろさを笑ってる気がするので、あのシーンはロマンチックすぎる。
  

 『いつか晴れた日に』について、三姉妹の恋模様という紹介を目にした記憶がある。オースティンの小説でも、エマ・トンプソン脚本のこの映画でも、末妹マーガレットにそんな場面はないのに。
けれども、オースティンの小説ではほとんど存在感のない末妹マーガレットが、樹上にすごい小屋を作ったり、引越し先で猟犬(ポインター)好きのおじさん(サー・ジョン・ミドルトン)に凧を作ってもらったりと、魅力的な少女として、自然の中をぞんぶんに走り回っているので、この映画好きだ。
 このマーガレットの描き方は『The Third Sister:A Continuation of Sense and Sensibility』(Julia Barrett 1996年)という本を取り入れているのか。
  

 映画によって、お気に入りになったキャラクターもいる。
 ヒロインたちの義姉(凄腕である。しかし、夫ジョンに愛されている。怖がられてもいる)。
 エドワード・フェラーズの婚約者(“義姉”に追い出される)ルーシー・スティール。
 マリアンが発病したとき、「子どもに伝染(うつ)る!」と狂乱した女(猿に似ている)と、冷静な夫(どういう経緯で結婚したのかがおもしろそう。エマ・ウッドハウスの姉夫婦を思い浮かべた)。これはシャーロット(ジェニングズ夫人の末娘)と議員のパーマー氏のことである
 彼らは、実際にいそうでおもしろい。

 そんななか、義姉とエドワードの母親にはがっかり。もっと凄味のあるおばあさんを期待していたので。


 『分別と多感』にはインド版の映画があり、姉がコンピュータープログラマー、妹は歌手。エリナは映画監督の志望の青年と恋に落ちるらしい。おもしろそうだ。