長野行、秋晴れ

http://www.geocities.jp/utataneni/nature/new.htmlからの転載です。今後はそちらで加筆訂正していきます。

長野行

 夏のような暑い日がつづいていたが、いつのまにか空気が澄んで、切れるような感じになった。快晴の日。
 窓の外を見たら、空中を小さな白い物が漂っていた。生き物にも見えたけど、なにかの植物から飛んできた綿毛(種子)らしい。
 裏山から落ちてきた栗の実が、今年は多いらしい。その栗の実は売っている物より小粒だけれど、つやつやと光っていて美しい。日本画の題材になっている理由がわかった気がした。

 上信越道(高速道路)から見る吉井町多胡地区や、甘楽町西毛地区の南側、妙義山荒船山などの風景が好きだ。とくに軽井沢までの山は奇岩があったり、山肌が深くえぐれ、魅力的だ。
 信州(長野県)はもっと秋っぽかった。空も空気も。そして田んぼ。佐久のあたりでは、もう稲刈りが行われていた。刈られた今年の稲束が竿に整然とかかっていた。
 上田市の周辺で味噌を買う。暗い倉庫にとても大きな樽がいくつもある。観光バスが寄るお店で、たくさんの従業員さんがいる。
 行ってみたかったお蕎麦屋さんは閉まっていた。上田城のちかくのお店で食べる。久しぶりに美味しいお蕎麦を食べた気がした。
 骨董店で、それぞれ数百円の小皿を買う。それは今、へやの棚にあって目を楽しませてくれる。
 (上田城もおもしろい所である。まず石垣とお堀が美しい。博物館には、金色の角が異様なほど長い変わり兜や、ふさふさした毛のついたかわいい棒などが展示されている。棒は参勤交代などの大名行列で、奴がもっていたようなものだ)

 市内で紬を買う。そのお店では機織機が動いて、色とりどりの糸や布がかかっていた。お金持ちになったら、この工房の服やバッグや帽子やストールをあれもこれも買いたい! (Jocomomola de Sybillaの服とバッグとノートなどについても、そう思う)
 紬のお店のまわりには、城下町らしい古い商家の通りがところどころ残っていた。崩れかけたところもある。須坂市とおなじく、もっと歩いてみてみたい町だ。
 ふだんは直売店やJA(農協)やスーパー「TSURUYA」(ツルヤ)で新鮮な野菜と果物も買う。塩田平のお米を買ったこともある。

 武石村(たけしむら)から美ヶ原へ登った。武石村は田んぼと家の調和が美しい山村だ。
 山道ではほかの車にはほとんど合わなかった。そのうち、白い霧にとっぷりと包まれてしまった。
 霧が切れると、木々は黄葉が始まっていた。山頂に着いたころ、美術館の鐘が鳴り響いた。閉館したのだ。
 霧も雲も晴れていて、久しぶりに明るさに出会った気がした。ところが、山というか丘の反対側へ行くと、こちらは悪い天気で暗かった。そこで美術館の方へもどると、少しの時間しか経っていないのに、こちらも暗くなっていた。
 犬がトイレに行きたがっていたので、出ると、寒い。観光客はほかに1台のカップルだけだ。数年前、来たとき(ブロッケン現象を見た)とは違って、あたりは荒涼とした岩野に見えた。

 和田峠のあたり(?)から、霧ヶ峰へ来るとき、2種類の鉄塔が接近しているところで降りてみた。
 リンドウが咲いている!と思ったら、トリカブトと言われた。青い色も形も美しい花だ。形は、縦長のふしぎな形の兜・烏帽子である。
 鉄塔は金網に囲まれていて、丘の頂上には行けなかった。
(数年前、美ヶ原(?)で野を越え、大岩へ行ったことがある。駐車場から遊歩道がつづいていた。大岩のある所は斜面で、岩がたくさんあった気がする。夕日であたりがオレンジ色だった気がする。おもしろかったなあ)
 鉄塔から去るころ、夕闇が濃くなった。霧ヶ峰で同行者がトイレに寄ったとき(お店は閉まっていた)、ふと思い立った。がらんとした広い駐車場を横断して、車道に行った。むこうには野が広がっていた。地上は暗かったけれど、雲に覆われた空の一角は白っぽかった。野は、もう草の生い茂る夏の野ではなくて、枯れて、怖いような寂しい野みたいだった。とても気に入った。呼ばれて戻った。
 そこから車山高原、白樺湖ビーナスライン(道の名前である)を下っていくとき、車窓の野を見ていた。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』のことを考えた。ここはキャサリンとヒースクリフの道行きにぴったりだ。『嵐が丘』を映画にするときは、こんな時刻の丘野をずーっと移動して、長く空撮したシーンで始めたら、いいだろう。
 ・・・・・・きっとこれは、『秘密の花園』(1993年 監督アニエシュカ・ホランドAgnieszka Holland )の影響だ。映画はけっこう退屈だったし、動物と心を通わせ、健康的な少年、ディコン(ディッコン)の魅力が半減させられているようだった。しかし、ラストで仔馬に乗った(?)ディコンがただ一人、茶色い、ただただ広い丘の野原(ムア? moors)を進んでいくシーンに目を奪われたのだ。



10月





   

 前日はたいへんな雨で、この日は晴天。青い空が美しい。緑がキラキラしていた。ときおり、風が吹いて、葉が揺れた。
 近くの空には、薄いベール様な雲がかかっていた。羽衣なのかもしれないけど、わたしは自分の腕にその雲を巻きつけてブレスレットのようにしたい。腰に巻きつけて垂らし、ベルトににしたい、と夢想した。
 遠くの空には、ちょっと巻いて、小島みたいな雲がたくさん浮いていた。ラピュタはああいう所ではないか。
 あるいは、ああいう浮島みたいな雲をどんどん踏んづけて、ジャンプして、どんどん白い雲の世界の向こうへ行きたい。
 「こんないい天気の時は、休暇を取って遊びに行きたい」 わたしはそんな現実的なこと、思いつかなかった。もっとうっとりしたいし、あの世界に行きたい。でも、ここは牢獄で行けない。光り輝く美しい世界を痛いような気持ちで見ているだけだ。死んだら、ああいう世界に行ける気がする、などと、軽く死にたくなっていたのだ。
 
 それとは別に気がついたこと。わたしは雲をアクセサリーになどと、口にできないようなことを思いついて、うっとりしていたけど、それはいまの自分、いまの状態に満足しているからではないか。
 雲は薄くなったり、移動したり、青い空に溶ける。木々は風に揺られている。わたしが見ている風景のどこもかしこも時間が流れている。わたしの身にも、時がうつろっている。盛りではない方へ。
 そのことがまず頭にあったなら、焦燥感でいっぱいだったろう。「うっとり」は今をもっと味わうため、味わうためにしていることなのだ。
(だから、『嵐が丘』24章の、リントン・ヒースクリフと、キャサリン・リントンが夏の一日の過ごし方で論争したところで、わたしはキャサリンの動的で光輝に満ちたヴィジョンに目を開かれる思いがし、惹きつけられ、軍配を上げてきたけれど、実はリントンの安逸な愉悦をまず愛している。昼下がり、気持ちのよい夏野に寝っ転がって、それでいいじゃないか、と思ってしまう。
 風やら雲やら、木の枝、葉っぱやら、心の激しい動き・ダンス、そして世界の歌声、大歓声に満ちた世界は、新しいものを見せてくれる窓だ。未来の時間へとつながっている。たぶんキャサリンの言ったことは、未来への強い渇仰なのだし、未来に全幅の信頼を寄せ、希望をもっているのだ。
 わたしが心を寄せるリントンのは、今にしか居ない。存在しない。今のことしか考えていない。そして、きっとすでに知っているなつかしい、顔なじみの悦楽と再会するのだ)
 外に出ると、キンモクセイ(金木犀)の香りが快かった。
 

 学生のとき、生物でよく聞いたプラナリアを初めて見た。なんと、テキストのような薄黄色ではなかった。色や模様はドジョウに似ている。
 また、勝手に、顕微鏡で見るようなサイズを考えていたが、1・2センチメートルもある。肉眼で、ひょうきんな寄り目の顔がわかるのだ。
 縮んで、伸びて、移動していく。その感じは、山にいる黒いヒルに似ている。けっこう速い。
 こんな生き物がなんと、近所にいるかもしれないのだ。清流に棲息しているから。・・・・・・でも、山村ではあるけれど、とりわけ美しい山村ではないので、わたしは無理かもと思った。
 ペットボトルにレバーを入れておくと、たかっているそうだ。
 なお、プラナリアを見たり、つっついているより、毛虫を見ていた方がおもしろかった。



 ある朝、渡り鳥の群れが空を飛んでいるのを見た。「く」の字のかたち、美しい。