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9・11 美しかった事、美味しかった事

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1951/nature/new.htmlからの転載です。今後はそちらで加筆訂正していきます。

 今年6月だった。曇っていて、でも、まわりの山々の緑が印象的な夕方、ふいに時がもどったような感覚におちいった。生々しい感情がこみあげてきた。ときは犬が死んだ日に、感情はあのときのものに。

 びっくりした。気象と自然がわたしに記憶を甦らせた、はじめての体験だった。

 1年は輪のようなもの。おなじ日は、なんどもやって来る。自然界は循環しているが、人間は古びていく。心に悲しみや後悔、喜びをかかえて。

 この日、母屋の奥から座敷をはさんで、縁側の外を見た。明るい陽光に照らされたピンクの萩の花、濃い緑色の山が目に飛びこんだ。急にあのときのことが思い出された。

 あの深夜、お風呂から出てテレビの前に座りこんだ。「今日こそ、テレビドラマを見るのだ」 前日も台風によって、中止されていた。ところがテレビをつけると、またもや中止。急なニュースが報じられていた。チャンネルをまわす。各局、そのニュース一色だった。

 場所はアメリカ、ニューヨーク。しかしテレビを見ていても、出来事の概要はなかなか説明されず、なにが起こったのかわからない。最終的に把握したのは、飛行機がビルに突っ込んだということ。

 事故? わたしの頭には、アフガニスタンの内戦のニュースで耳にした人物の名が浮かんだ。

 「まだ数機の旅客機が上空にいる」(ハイジャックされている?)と報じられた。その時にわたしが思ったことは・・・・・・

 テレビ東京の放送時間が終了し、静止画像に切り替わった。黒煙をあげる高層ビルに、水平で接近している飛行機、ビルのまん中はオレンジ色の火の玉になっている。「映画みたいだ」と思った。

 中近東の人々が手を振って、跳ねている映像が出た。ひとりのおばさんと男の子たち(女の子はいない)。喜んでいるのだ。まわりにいる大人(男。女はいない)もうれしそう。一台の車がクラクションを鳴らし続けている。助手席の男がVサインを突きだしている映像。

 とてもショックだった。宗教は人間の平等と幸福を説いているのではないのか。世の中で、宗教をほんとうに信じている人は、ほんの少しなのか。この映像は明け方には流されなくなった

 後で、こんなことを思った。宗教は本来「人を殺せ」とは言わないはずだ。たとえばイエス・キリストは誰一人殺さなかった。しかしゴルゴダの丘に引っ張って行かれ、殺された。キリストは王として、歓呼されて迎えられたが、一転して、大悪人として迫害され、追い出された。しかし「報復」なんてしなかった。人間はキリストにはなれないけど、なりたがっているのだと思っていた。宗教に誠実であろうとしているのかと。しかし、宗教に準ずることのできない人が多いからこそ、宗教はすばらしいものとされているのではないか。

 先の映像は、人間の悪の見本ではない。人間の見本だ。わたしは「人間はなんて人間ぽいんだろう」と思った。

 それから、「自分は子どもを好きだ」と思っていた。でも、、、  「鬼畜米英」と信じていた日本の子どももあんなだったのか?

 高層ビル群を海から映した映像も印象的だった。海上のマンハッタン島は、白い煙に籠められている。海は銀色。白煙の向こうの空は青い。「海も空もうつくしいのに」と思った。手前の小島に自由の女神像らしきものが見えた。

 この映像は心に残っていて、11月にニューヨークに飛行機が墜落したとき、すぐに思い出した。そして、シャーペンでごく簡単に絵に描いた。後にも先にもないことだった。絵の下にそえた文にはこうある。「いつだって自然は美しいのだ。人事とは無関係に。」

 その翌日は、いいお天気だった。久しぶりの晴朗な空。青い。暑くて、夏がもどったような日だった。緑が光って、美しかった。

 山に繁茂する草木を見ていたら、通信手段のある時代でなかったら、遠くの遠くの国でたくさんの人が亡くなったことを何も知らなかったろう、と思った。

 家に入ると、日本家屋の奥だから暗くて、涼しかった。木のテーブルで、冷蔵庫からもってきたヨーグルトを食べた。冷たくて甘酸っぱいヨーグルトが喉をくだっていった。美味しかった。味わって食べた。

 そのとき思ったこと。「生きていればこそ。生きていなければ、味わえないのだ」・・・・・・

 後で、それは「生きていてよかった!」という喜びで、亡くなった人々を冒涜するひどい言葉ではないかと気づいた。数機の旅客機が上空にいる、という情報が流れたときに思ったことも。わたしは今も責められている。

 その夜、米国の大統領が「これは大規模な善と悪の戦いだ。しかし、善は必ず勝つ」とか言った。仰天した。善と悪という対立なんて嘘で、ほんとうの悪なんてないことは、マンガでも、映画でも、小説でもでもくりかえし描かれているのに。

 日記帳をみると、こんなようなことが書いてある。

 「狭くて低い地上にしか、人間はいられない。そこに人間はごちゃごちゃといる。そんな存在なのに、大量の人間を殺し合っている」 「人を殺した者も、殺そうとしている者も、地獄へ行けばいい。修羅道で責められ、業火に苦しめばいい。でも、地獄とはお手軽で便利な考え方だ。」(地獄は、むかしの刑務所の代わりではないか。ひどいことをした人間にそれ相応の罰を与えてほしい、という願いから生まれた。)

 「人が殺され、殺しに行く、殺し合っている地上で、生きていくほかない。地獄よりも怖ろしいのがこの地上、この世なのだ。とっても寂しくなる。だれかにそばにいてほしくなる。」 「現実を生きていくのはなんて苦しいのだろう。あの映像の人々のように、単純に歓んで生きていくことはできない。そう思ったら、むなしくなってしまった。この世が地獄、修羅なのだと思ったら。」

 2001・9・11の日記。

 「午前、台風通過。日が射す。夕焼けが美しいだろうと思って散歩に出る。しかし、もう牧草地へは行けない。そこで、去年9月下旬、歩いて楽しかった記憶から、B−A地区の小道へ。ホトトギス(?)の花、萩の花、あざみの花、水引、ガマズミ(?)の赤い実。しかし深海の怪魚みたいなツリフネソウはなし。残念。

 クモの巣、少ない。ツルニンジンの神秘的な花もなし。

 夕焼けはすばらしかった。空じゅうの雲がピンク色に染まった感じ。家の東西南北、それぞれの窓をめぐって眺めた。」  (一部改変)