木のアートを見る。アートを買う。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1951/art/new.htmlの転載です。今後はそちらで加筆訂正していきます。



『木でつくる美術』
 群馬県立館林美術館

 展示の最初のほうには、群馬県立歴史博物館の民俗コーナーのものが展示されていた。

 原木も置かれていた。杉のすっきりした匂いが鼻をついた。

 いろいろな木の抽斗をおさめた「64樹種の薬ダンス」(薬箪笥)。自分はどの木が好きかなあ、と開けてみた。なかに樹木名の紙が入っている。わたしが開けたのは、神代ナントカっていうのが多かった。

 美術というと、わたしのイメージは絵画。ついで、彫刻。それもロダンみたいなブロンズか、船越保武の大理石みたいな。この展覧会で、「こういうアート、展覧会もあるのだな」と思った。

 よくなかった作品

 斉藤義重(ギジュウ) 群馬県立近代美術館で初めて出会ったときは、夢中になった。部屋の片側を占拠する大きな黒い作品。いまは、板きれにしか見えない。

 深井隆「月の庭」 木を、皮を剥いで、金で何かしてある。「サイテイ。木殺し。」 わたしの木への尊敬の気持ちとはちがうから、こう思った。

 板をいっぱい削りかけた作品あり。李禹煥(リウファン)。作品自体も魅力を感じないし、「こういうものも作品だ、美術だ」という考えにも新鮮味を感じなかった。

 デイヴィッド・ナッシュ 一部屋もらっているが、インパクトなし。単純すぎるし、単純であることの強さもわたしには感じられなかった。


 よかった展示

 岡部玄 一般の人と作ったらしい作品。流木を組み合わせてトンネルにしたようなもの。建物をつらぬいて展示されている。同行者「カバに似ている」 ほんとだ。そうとしか思えなくなった。そして、自分が中から見ているより、人が“カバ”の胎内にいるのを見ると、おもしろい。

 「よく組み合わせたねえ」と感心する人あり。山下清ちぎり絵や、ピアノの演奏にしろ、それ自体の素晴らしさより、目に見える技術に感心する人も多い。ピアノのことはジェイン・オースティンの『説得』(説きふせられて)を思い出したので書いてみた。

 岡部のほかの流木の作品(流木で柱が作られてて、その周りをまるく、流木がおかれている)は、川の流れと同時に、乾きを感じる。木の皮がなくて、ツルツルしているからか。自分も乾いていくような感じ。水がほしいよ。

 コネ鉢  こういう厚ぼったい鉢が好きだ。

 卓袱台(ちゃぶだい) 箱膳といい、むかしの日本人はこんな小さな家具で暮らしていたのか?

 キジグルマ・ゴショグルマ  木の鳥。つくりは大雑把。小正月のツクリモノであるクルマバナ、ツルシバナ、チュウバナ(ナゲバナ)とともに前から好きだ。

 ツクリモノは木を削っただけ。でも、削った部分がまるまって、花のような飾りになっている。簡素なのに、完璧。白木もすがすがしい。

 アーボヒーボ  木をぶらさげて、豊かに実った穀物を表しているそうだ。質感が好きだ。木って、いいと思う。

 小清水漸「Relief'80-8」 へやの壁がこうだったらいい。

 版画 橋本周延「新美人 33(漢字表記)」

 月岡芳年のもあったけど、あまり惹かれなかった。

 川瀬巴水。濃い色づかいがアニメーションに似ている。どこから見ているんだろう、と驚くような視点・構図もすばらしい。人間でない小さなものになって、物陰から、すがすがしい夜の川なんかを見ている感じになる。

 ミュージアム・ショップで売られていた画集は、知人が贈ってくれて、もっている。(林望の文章は、よくない)。知り合いは関西のほうの美術館で「いい!」と思い、贈ってくれたそうだ。(知人は、林氏の文章については何も言っていない)。わたしはそれで初めて巴水を知った。その後、(たしか)東京国立博物館で初めて本物を見たのだった。

 畦地梅太郎「遠い山」

 斉藤清「凝視」 黒い猫が描かれている。すばらしいデザイン。福島県の奥、只見湖のほうへ行ったとき、この人の美術館の看板を見た気がする。その看板もよかった。関係ないけど、そこは深い山のなかだった。夕方で、温泉町の川面に白い霧が漂っていた。

 日和崎尊夫「KAOS No.1」 タイトルに合う、黒い緻密な絵。何が描いてあるのかよくわからない。気持ち悪い生き物みたい。こういうの好きだ。「KALPA」という作品もある。単語の意味がわからない。

 円空の彫刻があった。有名な円空仏、初めて見たかもしれない。小幡(甘楽町)にあったんだ。十二神将立像(天部) 変な形。でも、いい。木っ端の形を利用して、光背を工夫したみたい。

 その後、テレビ「何でも鑑定団」で厨子入の小さなものが出た。迫力がなかったけど、本物であった。

 平櫛田中 いろいろ出ていたけど、妙に人くさい。(たしか)東京国立博物館の「日本美術院創立100周年記念特別展」には、壁に寄りかかって瞑想している半裸の男性像があった。哲学的な感じに引きつけられた。でも、妙に人くさい彫刻をつくるから、あのような対極的なものを作るのかも。

 宮本理三郎 すごくいい。江戸時代の画家・伊藤若冲が喜びそう。「ざくろ」「子雀」「蓮根」

 「春日」 竹にトカゲ。のどかって、感じ。すばらしい発想だ。

 「蟇(朴葉)」 葉っぱの上のカエル。端っこのめくれた葉っぱが素晴らしい。

 佐藤朝山「冬眠」 カエル。すごくいい。

 横田七郎「筍」 いいオブジェになっている。あと「栗」2点。

 佐藤、宮本、横田。知らない人だけど、とてもよかった。欲しくなった。

 有名な船越桂の人像が3点、おなじ部屋には上原三千代の作品。船越のは須賀敦子の本の表紙にもなってる。(たしか)笠間日動美術館でも見たが、よかった。

 しかし、今回は上原の勝ち。わたしは勝手に勝負させていて、すぐに勝ちを決めた。

 船越のは、マネキンみたい。清らかな聖女みたい。天使。美しい。若い。にも関わらず、いまにも死にそう。透明な死。

 上原のは、リアルなおばあとおじい。ずっと死に近い老人。なのに、生きている感じがする。

 いちばん気に入ったのは「下仁田小」。体育着の彫刻である。首や腕が色つきの布(ズボンと同じ)で縁取りされてる。ああ、こういう体操着をわたしも着ていたっけ。物によってなまなましい記憶がよみがえってくる。

 戸谷成雄「景体のバロック」など

景体ってなに? バロックという名前はぴったり。木が何かされて、突起がたくさん出ている。灰色。最初は気持ち悪かった。でも、神獣・聖獣に見えてきた。それがいっぱいある。神獣の森、神の棲む森だ。

 彫刻だから無音なのに、とてもうるさい。おしゃべりで空気がざわざわしている。聖獣たちがしゃべっている。

 深井隆「逃れゆく思念」 チャチにも見え、いいと思わなかった“金継ぎシリーズ”(勝手に命名しました)だが、これは馬なので気に入った。たっぷりとした体。またがって乗りたい。

 別館「彫刻家のアトリエ」。入り口のポンポン(フランソワ・ポンポン)の黒い大鹿、すばらしい。写実的なのに、かわいい。

 アトリエの棚には、ポンポンの小さな作品が並んでいる。棚は高い。棚の下にはフクロウ。でも、向こうを向いている。奥の壁にもある。

 当然アトリエには入れないようになっているから、よく見えない。再現とはいえ、いつもポンポンの作品をたくさん、近くで見えるようにしてほしい。

 あと、作品のポスターにしろ、ポンポンの収集を続けてほしい。ニセモノ問題(本当はもっっと細やかな経緯なのかもしれないが)が起こったり、「県立なのだから、地元の作家を収集するように」という要請もあるらしいが、世界のポンポンなのだ。あんまり有名じゃないから、まだ安いらしいけど、わたしのなかでは“世界のポンポン”だ。だって、すばらしいもの。産地なんか気にしないで、むしろ、日本の群馬で愛蔵されていることを誇りに思ったらいい。

 ポンポンの魅力を活かしたグッズも増やしてほしい。たいへんなキャラクター性があると思うから。古代エジプトの副葬品、青いカバさん(トルコ石?)みたいに。


 ミュージアムショップにて。

 展覧会図録、副題「Art in Wood」¥900。観覧料(\400?)と合わせたこれくらい(単行本1冊分)の値段は払っていい、充実した企画展だった。

 広本伸幸『猫も大好き! 現代アート』(淡交社) 表紙のでっぷりして不機嫌げな猫がかわいい! と思ったら、上原三千代さん。「中根家の猫」 本のなかの「岩井家のなめくじ」もいい! タイトルもいい。高崎市立美術館の展覧会(があった気がする)行けばよかった・・・と後悔。

 わたしはふだん、気に入ったポストカードを探して買う。そうすると、だんだんいい物が目に入って、趣味の範囲がきわまり、自分のレベルが上がっていく感覚に襲われる。それは狭い世界に入っていくことでもある。

 この本には、いろんなアートが載っている。野外の巨大なオブジェだったり。この本は目を広げてくれる。自由に解き放ってくれる。すがすがしい風を入れくれる。お風呂でも読んだ。美味しいものを食べたような気持ちになる。

 作品の選択はすばらしい。でも、川村記念美術館学芸員だったという筆者の文章は、ダサイ、野暮ったい、さむーい所もある。『ホビット』『赤毛のアン』の訳者山本氏の態度といい、東大卒なのに何で、ちょっと抜けているんだろう。わたしは高学歴の人に出会わないから、エリート幻想を壊してくれるのは書籍である。

 ¥1785。わたしの中では高い本。こういう画集・写真集の場合、収録作品1点をポストカード1枚分で計算してみる。この本は合格。

 ポンポンの絵葉書2まい。もう郵便なんて出さないけど、ポンポンがかわいいので。ポンポンという彫刻家のなまえは、わたしの中でその作品と同義になっている。

 踊り子の女性の黒いタイツの足をクローズアップした絵葉書。ドガ、と思ったらロートレックロートレックのポスターをいいとは思わなくなっていたけど、この油彩(?)はいい。ふだん使っている机に貼った。

 一枚一枚ちがうアフリカの生き物が描かれたトランプ。トランプないから、と。\1050

 株式会社布(NUNO Corporation)のバッグをまた買ってしまった。3つめ。今度はひもで口をしぼれる巾着。モスグリーン色の透けた布(ポリエステル)に茶色い糸で刺繍がされている。刺繍は、幾何学模様と人の顔。一瞬、川・流れ・流水紋に見えた。

 透けているから実用的でない。わたしは日常生活しかしていないので、使えない。渦巻きが貼りつけられた黒いポリエステルの巾着も、外出で2回使っただけだ。でも、見ていると心がドキドキするので、これも本を1冊読むようなつもりで買ってしまった。

 「NUNO ori ori」シリーズの肩掛けバッグ(残り布の組み合わせみたい)は使っている。

 再度をショップを訪れたとき、赤い服を着たブタの絵本を見てしまった。子どもの特徴があますところなく描かれていた。展開もすぐれている。

 1回見たから買わなくてもいいのだけど、1回見た分が価格だ。『OLIVIA』イアン・ファルコナー作、谷川俊太郎訳(あすなろ書房)。

 「全米書店員が選ぶ「2000年度 売ることに最も喜びを感じた本」」という帯文や、カバーに印刷された有名人の評もうまい。「エロイーズにいいお相手ができた」(『エロイーズ』の画家)、「舞台でおどりたいと夢見るものは多いが、オリビアは才能がある」、「オリビアの抽象画に対する理解度は、6歳児にしてが驚異的だ」

 ただ、献辞はいちばん後ろに配してほしかった。発見したとき、わたしは興ざめした。

 『猫も大好き! 現代アート』の愛読者カードに「アートを買ったことが」あるかないか、という項目があった。アートってなんだろ?

 わたしにとっては、たとえば、株式会社布のバッグだし、藤岡市の雑貨屋で買った縮緬の白ヘビ(赤いふかふかの座布団に乗っている)、高崎市のビブレの「JOCONONOLA de Sybilla」の服と靴とバッグと帽子とノートと板。それから、畦道でひろった鳥の羽、小石、捨てられるはずだった空き箱(模様や色、質感がすばらしい)、ビン、クッキーの缶。百円のもある。百円ショップで買った子供用の赤いお椀。かわいいカメとウサギが描かれている。

 わたしはアートに囲まれているつもり。でも、こういう市販品、量産品、そして自然から拾ったもの、ゴミは、愛読者カードのいう「アート」ではない気がする。この「アート」は1点物?

 わたしの美術鑑賞って、買い物も入る。自分の好きな物、自分を高めてくれるもの(単純にいうと、ドキドキさせてくれる物)を選んでいく行為だから。もしかしたら、本来の鑑賞、“観覧”よりも、わたしには重要なときがある。


会期2004/6/26−9/5