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すてきな暮らしの物語修正

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1951/books/houses.html
を書き直しました。今後はそちらで加筆修正していきます。


ほんの感想

すてきな暮らしの物語



  『家守綺譚』梨木香歩(新潮社、2004年)


 
 △(さんかく)。あまり面白くなかった。『西の魔女が死んだ』が好きだったし(楡出版の装幀もよかった)、新聞の書評から期待していたからかもしれない。

 まず、「左は、学士綿貫征四郎の著述せしもの」という冒頭の文にちょっと盛り下がる。でもそんなこと大したことじゃない、と読み進める。読み終わった。冒頭のことが解決されていず、がっかり。すてきな異空間を作品内にとどめておくのは楽だろうけどさ。

 文章は、次に暗示されている人の文章をちょっと彷彿とさせる。
 
 「悪魔のような下宿の婆さんに当たってしまった留学生の話も聞いたことがある。そうなると、その留学体験全体が悪夢そのもの、その学生はすっかり神経衰弱にあって帰国したという」(「リュウノヒゲ」)

 その夏目漱石の『こころ』の語り手である学生は、年齢からいって徴兵もされず、第二次世界大戦後までたぶん生きられたはずだ。
ところで、

・変な「先生」の影響を受けてしまった『こころ』の学生は、お金を儲ける職に就いただろうか?

・東京帝国大学文学部(?)卒・地方の地主階級の彼は、どんなふうに農地改革などの戦後の荒波を乗り切ったのだろう?

 彼のその後はわたしにとって、わくわくする疑問だし、それに耐えられる弾力性が『こころ』にはある。しかし、それが『家守綺譚』には感じられない。

 『こころ』の学生、『行人』の弟・二郎(明るくふるまっているけど、かわいそうな家庭というか、日本の家庭の被害者みたいな若者)と、綿貫は近い年代だ。綿貫はどうなったのか。家はどうなったのか、気になっている。盛衰記でもいいから、それを読みたい。

 ファンタジー文学、“幻想小説”の醍醐味も、現実と切り結ぶところにあるはずだ。もちろんわたしには作者のような才能なんてない。田辺聖子さんや村田喜代子さんの小説を楽しく読むことで教えられたのだ。


 「すてきな異世界」と書いたけど、これがあんまり印象に残っていないのだ。『耳納山交歓』(村田喜代子)の、山林全体を覆うしっとりとした白い霧や、隣り合って雨宿りをしたキノコ坊主の質感なんか忘れられないのに。

 ただ、「山一つ越えたところにある湖(私注 たぶん琵琶湖)でボートを漕いでいる最中に行方不明になった」同級生・高堂が掛け軸から、ボートに乗ってひょいっと現れたり、飄々とした会話を交わすところ、掛け軸の白鷺(サギ)が自由自在に出没するところは好きだ。

 お嬢さん「ダァリヤの君」も印象的。とくに、舟による嫁入り行列に「佐保ちゃん」と叫んで、白い花(サザンカ)を投げるところ。佐保ちゃんは幼友達で、「春の女神になって還ってくるのだ」。

 「ダァリヤの君」は綿貫の“マドンナ”でもある。こんな感じか。「何だか水晶の珠を香水で暖(あっ)ためて、掌(てのひら)へ握ってみた様な心持ちがした」(『坊っちゃん』)。でも、わたしのイメージに近いのは、佐々木倫子描くところの『動物のお医者さん』のおばあさんの若いころ。

 高堂と綿貫のあいだには、同性愛的なものを思わせるが、それが曖昧にされているところもよかった。・・・そう、リアリズムと折り合いをつけながら、最後まで残してくれる“謎”がほしかったのだ。


 綿貫は英語学校の講師すら辞めて、定職を持たず、いわば趣味に生きている。高等遊民である。『吾輩は猫である』の苦沙弥先生や、東京帝国大学講師・夏目金之助先生にとっては、どんなにうらやましいことだろう!  アルバイト・パート、派遣、非常勤などで収入を得、将来はもとより来年の不安定さを嘆きつつも、「多忙でストレスの多い社員になったりするより、今のままがいいかも」と思うフリーターのあふれる現代だって、うらやむ人は多いだろう。

 そんな夢のある生活を支えているもの、それは、 家、 である。

 なんで、高堂の父親はお金になる貸家にしなかったのか。息子の気持ちを汲んでだろうか。

 『家守綺譚』の時代から約10年前の夏、小説家志望の若い女性が一生懸命、東京都下を歩き回って家を探していた。安いながらも室内がきれいで、庭に緑のある家で、商いで生計を立てつつ、小説を書く生活をしたかったのだ(それについてこちらに書きました)

 イギリスのヘンリー・ライクロフト氏も記している。「「家」を持つということの、なんともいいようのない祝福感!」

 しかし、樋口一葉は結局、妥協せざるをえなかったし、文筆家(ライター)・ライクロフト氏はもっとみじめだ。貧窮のまま一生を終えたジョージ・ギッシングの創りだした架空の人物なのだ。

 一葉は「常の産なければ常の心なし」と日記に書いた。この「産」は収入だろうけど、家だって、「常の心」には必要だ。たとえ定職はなくても、寝て・起きて・暮らす安住の棲家がなければ、心は安らかになれない。綿貫はそれを簡単に手に入れた。住処や収入を得るためにふつうの人が抱く焦燥や苦しみを体験せずに。

 ここからして、夢みたいな小説だ。


 綿貫は、(たぶん)京都帝国大学の卒業生であり、留学するエリートの研究者たちを知人にもち、売れない文学(ということは新聞小説になるようなエンターテイメントではない小説)を書いている、若い男。

 もしそんな人間が実際にそばにいたら感じるような違和感や、鬱勃としてゴツゴツしたものは、この小説には漂っていない。いまの若い女性読者が生々しさを感じずに共感できる、柔らかくて、色で表したら「白い」人間だ。

 ツヴェタン・トドロフの『幻想文学論序説』にもあるように、綿貫はこのジャンルの特徴の、「万人に共通の」一人称「私」であり、「すべての(ほとんどすべての)読者がそこに自分を認められるような、ごく「ありきたりの人間」に設定されている」のだ。

 また、幻想小説では、幻想に直面した「私」は「ためらい」つつも、ふつうの人よりも簡単にそれを受容していくという。いうまでもなく綿貫も。


 『家守綺譚』には生身の人間はあまり出てこない。そのかわり、たくさんの異界の生き物が出入りする。先に書いたように、綿貫はわたしたちと同じような人間である。そんな彼に怪異現象について、いかにも日常の出来事であるかのように、名前を挙げて説明してくれる役割を担っているのが、綿貫のまわりの数少ない人間である。

 そのひとりが「疎水の向こうの山寺の和尚」。しかし、異界の生き物が彼に化けて、綿貫をたぶらかす話が何回かあって、わたしは最後には飽きてしまった。

 定番のキャラクターのもう一人は、犬が大好きで、ゴローを可愛がってくれる「隣のおかみさん」。ところが、終章、綿貫へ縁談をもってきて、こんな嘆息をされてしまう。



それがための「給金はいかほど」か。銭勘定とは無縁の、と云っておきながら、この人はこの矛盾に気づかぬのか。ああ、しかし世の中とはかくなるものなのだろう。衆生は平気でこの矛盾を背負い込めるほどに健康なのだろう。

 最後になって、俗物とか、俗世の手先・眷属・露払いを負わされてしまっているのだ。

 さきにゴローと名前を挙げた犬も、主人公とともに、ときには単身、異界に出入する。だんだん、ふつうの犬ではなくなってくる。

 この小説・・・もっと、現実世界の魅力、この俗っぽい浮き世にうごめいている「衆生」の魅力、異界性も表現したらいいのに。この現実こそ、異界よりおもしろい世界かもしれないのに。

 あるいは現実は、村田喜代子さんの数々の諸作のように、現実と幻想がうまく交歓してこそ、すばらしい世界かもしれない。

 だが、幻想・異界と、現実との関係は、この小説でも重要なテーマになっている。おかみさんの縁談の紹介は、作品世界の閉門が近づいてきて、綿貫に現実が見えてきた、ということかもしれない。

 彼はクライマックスで、現実を選びつづける、という決着をつけるのだけど、「カイゼル髭」や円卓を囲んでいた美しい人々にだけじゃなくて、「おかみさん」の所にも行って、あの謝りの言葉を言ったらいいんではないだろうか。それこそ、新しい人生の門出にふさわしいのでは?

 この本でいちばん称賛したいのは、デザインだ。

 カバーの、青っぽい縦縞の布の写真。

 見返しの、神坂雪佳という人の図案「白鷺」「巴の雪」

 端正で瀟洒な墨書のタイトルもいい。題字は、神木野啼鹿。

 章のタイトルはすべて植物名で、目次は二段組になっている。余白が多いからか、活字なのに、ちょっと散らし書きに見える。

 新潮社装幀室製。

 帯文もいい。縦書きであることや活字の色はごめんこうむって、その一部を再現したい。


庭・池・電燈付二階屋。

汽車駅・銭湯近接。

四季折々、草・花・鳥・獣・

仔竜・小鬼・河童・

人魚・竹精・桜鬼・

聖母・亡友
等々々

出没多数−−。


文章では、この帯文がいちばん好きかもしれない。古都に近いこんな物件に、春夏秋冬、棲みたくならないだろうか?

 装幀からして、和風の装いである。和風のインテリア、昭和時代までつづく、木と紙と草(畳、ヨシズ)の日本家屋での、四季を味わい、共存する暮らし。そういったものが最近、社会でも人気なようだ。

 この小説の家の建築としての条件といい、この世にありながら幻想的な異界に遊び、たわむれるエピソードといい、実はわたしにとっても夢であるような本である。

 実際の舞台の、明治・大正時代の端境(はざかい)ではなく、「明治は遠くなりにけり」、携帯やテレビや雑誌やインターネットなどには情報があふれている今。異界の幻想的な現象・物語に、生活しているなかで直に出会い、巻き込まれることなど全くない(たぶん戦後の『となりのトトロ』が最後なのだ)。怪異譚・綺譚は画面(モニターやスクリーン)のむこうで語られているだけ。起居している家はもちろん、自動車や電車に乗らず、歩いたとしても、コンクリやら、なんだか分からない光る硬い物質で覆われたビルのあいだの舗装道路。気持ちのよい疎水なんか流れていない。山紫水明、百鬼夜行抄からは遠い、そんな平成の今だからこそ、需(もと)めている人が多いし、存在し得る夢物語なのではないだろうか。







  『方丈記』鴨長明

  『ヘンリ・ライクロフトの私記』ギッシング


 
 “すてきな家に住んでのすてきな暮らし” 小説『家守綺譚』の裏返しの作品かもしれない。エッセイだからかな。

 『方丈記』にしても、まるっきり実話ではなく脚色しているだろうし、『ライクロフトの私記』にいたっては、上にも述べたように完全なフィクションである。ただ、現実を舞台にすると、『家守綺譚』とはまったく異なる内容になる。

 二作品には、現実に生きる苦しさが筆を尽くして書かれている。読む者は、すばらしい芸術の世界をどれほど知り、そこへの強い憧れを抱いていても、また、権力など求めず、ただ安寧な生活を欲している善人であっても、思うようにはいかない人生、市井に生きていく厳しさと寂しさを、自分のことのように感じるだろう。

 だからこそ、そこに次々と出てくる、家をはじめとする具体的な物、家の間取り、家の周りの庭について、室内に置く物についての記述には、切実な思いが感じられる。たとえば、長明の列記する楽器。ギッシングの挙げていく本。

 現実が苦くて痛いからこそ、その記述のひとつひとつには、大きな夢がこめられている。それは、体験したい歓びの夢だ。本を読み、音楽を愛し、自然に遊び、死を恐れない生活の夢。

 ・・・実は、そんな夢は書くことによってしか、体験できないのかもしれない、と思って、ゾーッとする。怖くて、哀しい本でもある。

 ギッシングが書いた「夏」の終わり(27章)、シェイクスピア『テンペスト』についての文章は、文学と自然への愛が融合して、この種のものとしては最良のものだろう。

 たしかにギッシングは、岩波文庫の訳者・平井正穂が紹介したのはちがって、現代にはほとんど知られていない(と思われる)。ギッシングが自分の本で称賛した天才の仲間ではない。また、彼は現代も読まれつづけるにしては、社会情勢について、世界について、狭量で保守的すぎた。

 しかし、先の文章(27)はすばらしい。それに本全体から感じられる、自然や文学、芸術への愛の深さ、そういう世界から汲みとった恍惚によって本当の人生を生きてきたこと、そして、幸福感の記述の裏にべったりとくっついている渇仰、深い飢餓感を通して、わたしはギッシングに強い好感をもつのだ。

 わたしが『ライクロフトの私記』なんていう、約百年前の本を読んだのは、辻邦生さんの文章に惹かれたからだ。そこにはこんな文もあった。


ギッシングは裕福になったライクロフトの生活を描いても、貧しかった自分の過去を忘れられません。貧と富の混淆は一種の哀歓を喚び起こします。
『手紙、栞を添えて』(水村美苗との往復書簡)
 
 そうなのである。長明やギッシングの人生を知っているからだろうか。彼らの幸福の表明であり、具現である散文は、幸福だけに満ちているのではなく、綻びが見える。幸福にはなりきれていない現実がチラリとのぞいてしまっているのである。

 上の『家守綺譚』も、つぎの『季節の記憶』も、フィクションなればこそ、完璧に理想的で、幸福な世界を作りあげ、閉じこめることができる。そのすてきな家でのすてきな暮らしの文章は、読むと、幸福な気持ちになれる、美味しい飴玉のような世界だ。

 対して、現実を大地にして美しい玲瓏な楼閣を造りあげようとした『方丈記』『ヘンリ・ライクロフトの私記』は、悲しい本である。本や音楽をすごく愛しているのに、自らはすぐれた創造者になれない。世の中で生きていくこと、ふつうの生活を営むことにも不器用。文章を書いても幸福は、きっとその一瞬と、読み返すとき。文章を書くことでしか、幸せになれないのだ。

 無様に失敗していて悲しい。でもだから、好きだ。



なお、『ヘンリ・ライクロフトの私記』は2冊ある。わたしは最初新しい方で読んだ。

 ・平井正穂訳の岩波文庫(改訳1961年)

 ・『ヘンリー・ライクロフトの四季随想』松田 銑訳(1995年、河出書房新社)

『方丈記』についてはこちらやこちらにも書きました。





  

  『季節の記憶』保坂和志(1996年)

 現代の隠者の生活は、こういうものかもしれない。やっぱり都に近い田舎に住居をもちながら、ほどほどに世間と接し、文筆で収入を得る。友人と楽しく食べ、歓談する。本を読む。散歩をする。あしたの料理をつくる。頭の中で哲学的思考をして“遊ぶ”。将来の憂いのないゆったりとした日常。ことにわたしは、鎌倉の山と海をめぐる散歩のくだりが大好きだ。

 しかし、この小説にはきらいなところもあり、こちらに書いた。いま思うと、ナッちゃんへの攻撃的排除は、この作品なりの現実との対処法のひとつかも。『家守綺譚』の主人公が「おかみさん」にぶつけた舌鋒鋭い批判のように。


 いまもむかしも隠者文学は、約850年にわたって、ふつうの人以上に現実と自分の関係を考えているのだろう。




 わたしが思うのに、すてきな暮らし、実は頭の中で組み立てられているすてきな暮らしに必要なものは、物質である家だ。だから、外観から、間取りや室内の様子はのみならず、調度・家具・そこに置いている物、それから、家の立地・環境にまでくわしい、充分な記述がなされるのではないか。心が満たされるように。人は字を書き、字を読むことでも幸せになれるのだ。

 わたし自身、すてきな暮らしとすてきな家に昔から憧れてきた。それは、子どものころは物質に満ちた夢だった。ところが、大人になると隠者志向・遁世志向が混じって、実現不可能だからこそ、切ない夢に変わった。世間を渡っていく難しさを知った者は、夢にあらわれる物一つ一つには、精神的な夢・憧れが詰めるのだ。

 と、そんなふうに思い入れが大きいから、すこしでも自分の狭い嗜好からはみ出していると、悪く書くのかもしれない??