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四阿山行、虹、虫

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1951/nature/new.htmlを更新しました。今後はそちらで書き直していく予定です。


 追記

 あんまり気持ちがよかったので(昂揚していたので)、外に出てしまった。太陽はのぼったのか、まだなのか、空は一面雲に覆われていたのでわからない。あたりは夕方みたいな薄明るさ。

 まわりを取りかこむ里山・丘陵の緑色が鮮やかだった。それから、標高200メートルほどの里山に、細長い白い霧がたなびいて、竜のようだった。

 空気は涼しく、心地よかった。田んぼに沿って歩いていると、しっとりとして緑濃い美しい自然に包まれている喜びが、ふつふつと湧きあがってきた。きっと、観光名所になっている世界の美しい島にも、こういう場所、こういう美しい朝があるだろう。


 

 
 群馬県倉渕村は、住みたい場所のひとつだ。この日も、車窓を流れていく濃い緑色の山、釣り人の立つ川、明るい緑色の田んぼが目に染みた。

 二度上峠で立っていたら、ひらひらと一匹の蝶(チョウ)が飛んできた。緑色に光る羽をしていた。ちょうちょは、天からの使者だ。

 峠は涼しくて気持ちよかった。地上は暑くてたまらないけれど、ここなら読書に打ちこめるだろう。町に住み続けたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、この涼しい山中に来たら、どんな感想をもっただろう。

 北軽(北軽井沢)を通る。林には日の光が差しこんで明るく、そこに家(たぶん別荘)が点在していた。ところどころ、林の中を小川が音を立てて流れていた。こんな美しい村があるのか、と夢を見ているようだった。


 
 ゴンドラに乗り、四阿山(あずまやさん、群馬県嬬恋村)へ。ゴンドラには犬も乗れる。

 冬は白いゲレンデに変わる草原で昼ご飯。ヒキガエル(?)現る。ここはもうすぐ寒くなると思う。冬眠期間は長いのだろうか。

 登山道はけっこう急だった。でも、小さな子どもをつれた家族連れ、老人にもずいぶん行き会った。カップルも、ひとりの中年男性も歩いていた。

 林なので、眺望はとくにはおもしろくない。足元にときどき、白や黄色や紫色(リンドウ)の花が咲いていた。同行者に聞けば、名前を教えてくれたかも知れないけど、これがめんどうなのだ。名前をせっせと詰めこむことにとらわれたくない、という気持ちもあった。

 ところどころに岩がある。こういう所をイギリスはヨークシャーのキャサリンとヒースクリフが歩いたら、幸せだったろう(ふたりはエミリー・ブロンテの唯一の小説『嵐が丘』の主人公)。ふたりは精神的な双子であり、とくに子どものころは二人で密着していると、どんなに心強く幸せだったろう、と思うのだ。

 頂上近くは、よじのぼる感じであった。標高2354m。頂上には大きな岩があって、あちこちが刃物で削ぎ取ったような平らな面を見せていた。「セツリ」というそうだ。うんざりしたのか、漢字は教えてくれなかった。これを書くために調べてみると、「節理」らしい。

 頂上からは、近くに緑野の広がるうつくしい山があった。ほかの登山者によると、根子岳(ネコダケ、猫岳、猫嶽)らしい。ここから見ると、魅力的で行きたい気持ちに駆られるけれど、きっと緑野はクマザサ。そこを歩くと、へんてつもないクマザサばかりを見るのではないか。クマザサは分校に通っていたときも生えていた。

 上を仰ぐと、空はとても濃く、ちょっと暗いような青色だった。白い雲が光っていた。

 猫岳の反対側には浅間山。噴煙をさかんに出している。この日の火山活動レベルは2。煙というより、まっすぐに立ち上がり、太い柱のよう。山が天に向けてパックリ口を開け、噴き上げているようだ。

 頂上には祠がいくつかあった。大きな声で「ありがとうございました」と言って、お金を入れている人。赤い祠(神社)には、観光みやげ店で売っているような、陶器製の小さなファンシー小物っぽい地蔵(だったか)が置かれていた。

 わたしはふたつの頂上の間のかたわらの草むらにあった、石の小さな祠が気に入った。神様の侘び住まい、別荘だ。

 頂上には家族連れ、カップラーメンをつくる若者の団体などもいた。

 帰りはゴンドラに乗らず、スキー場を降りた。見た目は美しいけれど、小石に覆われた急な斜面で、疲れが増した。しかし、久しぶりに見た花畑だった。ここを歩かなければ、あれほどの満足感は得られなかっただろう。いろいろな色の花が咲いていた。いくつかを挙げる。

 白いユキワリソウ、濃いピンク色のヤナギラン、ヨツバヒヨドリ、黄色(?)のマルバタケブキ、赤紫色のアザミ、オレンジ色のオニユリ、白いオダマキなど。

 わたしたちがゼイゼイしながら降りていると、ゴンドラ乗り場の人が小型の乗り物で通り過ぎていった。あっという間に、起伏を越え、消えた。そのあと、地元の若者らしい人間がジープに乗って、さわぎながら上って、しばらくして降りていった。

 四阿山は深田久弥による日本百名山のひとつだという。なんでだか、わからなかった。わたしは本も読んでないし、登山というか、ハイキング・トレッキングの経験の微少だからか。



 

 暑い外にいた。人が驚き叫んだので、指さす空を見ると、太陽の周りに虹が一周していた。そんなの見たことなかった。別の人によって、そのまわりにもう一周、うすい虹がめぐっていることも分かった。

 太陽を取り囲んで虹が。知らないから、びっくりする光景だった。あとで、気象学の言葉で「カサ」「暈」(うん)と呼ぶものだとわかった。たしかに薄い雲の多い日だった。

 その本の記述は淡々としていた。虹のことはニュースになっていなかった。わたしたちの感動は思い出の中にしか無いようだ。

 太陽と虹で、源氏物語の一節を思い出した。


 まかでたまふに、大宮の御兄の藤大納言の子の、頭の弁といふが、世にあひ、はなやかなる若人にて、思ふことなきなるべし、妹の麗景殿の御方に行くに、大将の御前駆を忍びやかに追へば、しばし立ちとまりて、

 「白虹日を貫けり。太子畏ぢたり」

 と、いとゆるるかにうち誦じたるを、大将、いとまばゆしと聞きたまへど、咎むべきことかは。

 「白虹日を貫けり」。太陽を虹が貫いたので、この日の現象とはちがうが、人は太陽と虹に注目してきたらしい。

 この故事は、始皇帝を暗殺しようとした荊軻(けいか)をめぐる話で、史記にあるらしい。

 ここでは、といっても、源氏物語はいつもそうなのだが、それ以外でもおもしろい点がある。イジメのひとつは、歌ってからかうということ。「うち誦じたる」だから、朗読かもしれないけど。独白かな。光源氏も、囃されたのだ、とわたしは面白がっている。

 それから、イヤミをいった頭の弁。彼は、今をときめく朱雀帝がわの人間。ずーっと朱雀帝、というか、辣腕の政治家・弘徽殿女御の時代が続くと信じている。源氏がさっきまで、朱雀帝と心を通わせて語らっていたのを知らない。頭の弁は朱雀帝の女御のところへ行くところ。気持ちが高ぶっていたのだろう。

 なにより、「世にあひ、はなやかなる若人にて、思ふことなきなるべし」 人生にはいろいろあって、苦いことも、そこに滋味があることも知らないのだ。嫌がらせを言われ、堪え忍んでいる源氏よりも、わたしはこの若い無知な坊ちゃんに惹かれる。


 

 
 窓を開けて、ちょっと身を乗り出して外を見ていた。風がほおをなぜて気持ちいい。エドワード・ホッパーが、窓から似たようなポーズをしている人間を描いている意味がわかった気がした。窓を開けて、体を出していると、希望とか、未来とかが感じられるのだ。


 

 

 用務先の草むらで、ふと足元を見て、飛び上がった。「ヘビだ!」

 ところがそれが毛虫だった。毛虫って言っても、毛はない。太くて、長さは10センチくらいあって、目玉模様がついているやつ。

 初めて気づいたんだけど、どうも、毛虫はヘビに似せているんじゃないのか。皮膚がまるで、金属質に見える。

 それから、目玉をならべて、側面を顔にしているんじゃないか。

 用務よりも、金色がかった丸い模様とか、葉っぱを食べる方向とかがおもしろかった。(葉をつかみ、上から下にかじっていく)。

 前足は3対。その付け根(頭部?)は延び縮みするので、前足の間隔も、とても空いたり、狭くなったりする。

 後ろ足は4対。肉塊という感じ。でも、つっついても、なかなか茎から離さない。足の裏は、緑色。そこにだけ、食べている葉っぱの色をすなおに出しているようだ。

 でっぷりしているけれど、つっつくとよける動きが速い。頭を上げて威嚇もする。それから、体をカーブさせたまま、停止。そうすると、皮膚が萎縮してか、ますますヘビのうろこ模様に見えた。

 手帳を持ってきて、絵も描いてみた。自分は無知だから、おもしろいんだと思う。でも、自然は魅力的なものでいっぱいで、一生わたしを飽きさせない、という予感もしている。

 わたしは、かなりおっせかいだし、一人でいると寂しくなる人間だけれど、黙って生き物や草木を見ているのもかなり好きだ。


小さいときから虫や動物をじーっと見ているような子供だったかもしれない。他になんにもできなくて、虫ばっかり見てるというのも、ずいぶん寂しい子供ですが。

そんな息子が絵に集中できるようになったことで、一番ほっとしたのはお母さんかもしれない。

狩野博幸『芸術新潮』2000年11月号「特集 異能の画家伊藤若冲」

小学校にもいた。影がとても薄い子供だったのだろう。まわりが、世間へ交わる商人として期待したくても、ぜんぜん期待できないような子供。でも、そのぼおーっとした顔の下にある伊藤源左衛門の恍惚は、わかる気がする。