武田百合子さんクロニクル加筆

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1951/Yuriko_Takeda/chronicle.html の転載です。今後はそちらで加筆修正していきます。



武田百合子さんの人生(年譜)

1951年/61年/71年/81年/85年/91年  私の未入手作品




1925(大正十四)

 9月25日 神奈川県横浜市神奈川区栗田谷で誕生。

異母兄姉と、同母のお兄さんがいた。以後弟さんが二人誕生。


1932(昭和七)

 7月13日 お母さん逝去。

以後、母方の大叔母が「母代わりとして一家に入る」*

幼少期を描いた作品に登場する「病死した母の代りに私たちを育ててくれる、この遠縁のおばあさん」(『ことばの食卓』の「牛乳」)だろう。


1938(昭和十三)

 4月 神奈川県立横浜第二高等女学校入学。

 同人誌『かひがら』のメンバーになる。


1942(昭和十七)

 文章「父さん」 『かひがら』2号・新年号。

 8月 長兄新太朗氏結婚。

このころ大叔母、鈴木家から去る。

 詩「〝山〟」、文章「お父さん遊び」 『かひがら』3号(発行月不明)。

 詩「『沈丁花』」 『かひがら』4号(発行年月不明。したがって翌年の可能性もある)。


1943(昭和十八)

 詩「『成長』」「『ちがさき』」「『おと』」「『うみ』」「『夜』」「『天』」 『かひがら』五月号(号数不明)。

 3月 女学校卒業。

「学校の紹介で横浜の高等師範付属図書館に勤務」*

 この頃、お父さんは自宅療養。二人のお兄さんは出征。住み込みの看護婦・村山さんが来る。


1944(昭和十九)

 8月3日、お父さん逝去。(この日付は「中」より)。

弟さん2人、村山さんと暮す。



 「去年の秋」が『新女苑』詩歌欄に入賞、選者・室生犀星。#(年月未確認)


1945(昭和二十)

 5月29日午前、アメリカの爆撃により、家屋全焼するも「奇跡的に生き延びる」*。

山梨県南都留郡田野倉村の札金温泉に弟修氏、村山さんと疎開

 終戦。お兄さん達が復員し、東京へ引き上げる。

このあたりのことは「あの頃」(『遊覧日記』)にも書かれていて、東京に出てきたのは「年の暮れ近く」とある。

 義兄が「病臥していたため、手伝いとして」横浜の山鹿家(お姉さんの婚家)に寄宿*。




1946(昭和二十一)

 2月25日 義兄山鹿浩氏逝去(日付は「中」)。

「しばらく後」(中)、長兄・新太郎氏のもとへ。

その後、弟さん修氏と暮す。

 「その日の糧に困る商況ではなかったが」、「出版社や作家(海音寺潮五郎)の秘書などの仕事を転々とし、化粧品やチョコレートの行商などもする」*(引用は「筑」)。

 「この頃〝世代の会〟同人に参加するが、寄稿はしなかった。」*(引用は「中」)。

「世代」の同人との関わりは晩年まで続く。そのうちの何人かあげると、吉行淳之介いいだもも、矢牧一宏、遠藤麟一郎、小川徹、八木柊一郎、中村稔、中村真一郎

 「神田の出版社昭森社に勤務、森谷社長の経営する階下の喫茶店兼酒場ランボオにも勤め、武田泰淳と知り合う。」*

 昼間は、お姉さんの露店の食物屋(鈴木家の菩提寺・妙蓮寺境内)を手伝ったりしていた。




1948(昭和二十三)

 5月 「鈴木家を出て、神田で泰淳と同棲」*

神田「小川町の不動産屋の階上や西武線沿線野方の商人宿などを転々とする」(中)





1951(昭和二十六)

 「前年より杉並区天沼に転居」*

 10月31日 花さん誕生。

 11月 出生届とともに入籍。


1952(昭和二十七)


 神奈川県江ノ島に転居。

1953(昭和二十八)

 1月 目黒区中目黒にある泰淳の実家・長泉院に転居。(1957年まで)。

 「能筆を買われ卒塔婆書きなどを手伝う」(中)。

卒塔婆書きについてのエピソードは『武田泰淳全集』の月報に、たしか新聞記者の方が書かれている。

 『かひがら』の同人(小林やよいさん、金井さん)と再会。


1956(昭和三十一)

 自動車運転免許取得(中)。


1957(昭和三十二)

 四月以降、杉並区上高井戸に転居。


1959(昭和三十四)

 『かひがら』二月二八日発行第四号〈風のたより〉欄に、書簡と思われる文章が掲載される。




1960(昭和三十五)

 「〝空想旅行〟「アルベルロの町」」 『かひがら』十月二三日発行。

 「長野県から」『かひがら』十一月発行五号。

 この年、「港区赤坂氷川町に転居、自動車を購入して泰淳の送迎にあたる」*









1961(昭和三十六)

 「花だより」 『かひがら』六月六日発行

 「忘れた夏の手紙」 『かひがら』十一月一五日発行九号。前年の書簡だという。日付〈八月二十六日〉。


1962(昭和三十七)

 書簡「12月20日付」 『かひがら』五月十五日発行十号

 以上の、『百合子さんは何色』に紹介されている戦後、『かひがら』に掲載された文章はすべて書簡体。実際の書簡でもあるようだ。百合子さんはどこまで作品と意識していたのだろうか。


1963(昭和三十八)

 山梨県南都留郡鳴沢村富士桜高原に〈暮近く、山小屋〉が建ち、年末年始を過す(『富士日記』)




1965(昭和三十九)

 〈晩春辺りから、東京と山を往復する暮しをはじめ(略)「おれと代わるがわるメモしよう。それならつけるか?」などといわれて、日記がはじまった。〉『富士日記』冒頭の文章。

 〈武田は、私に日記をつけてみろとよくいったが、ものを書くのがイヤな私は家計簿すらつけなかった。山小屋を建ててからは、山にいる間だけでも日記をつけてみろといわれた。(略)山にいる間だけ、ということにして、使い残しのノートや有合せの日記帳にぽつぽつ書きつけた。〉『富士日記』昭和五十一年九月九日の記述後の〈附記〉。

 7月4日 泰淳さんが日記をつける。『富士日記』巻頭の日記。

 7月18日 百合子さんが『富士日記』所収の日記を書く。

 以後の百合子さんの人生は『富士日記』『犬が星見た』や、泰淳の作品(フィクションも混じっていますが)から詳しくわかると思います。



1969(昭和四十四)

 6月10日から7月5日 泰淳、竹内好とともにソビエト社会主義共和国連邦(現・ロシア連邦)・スウェーデンデンマーク旅行。

このとき、泰淳の要請で、『犬が星見た ロシア旅行』の元となる日記をつける。

旅行に同行した経緯は『富士日記』中巻末尾の〈附記〉にも書かれている。








1971(昭和四十六)

 11月27日 泰淳が糖尿病に起因する脳血栓で入院。

 12月9日 退院。「右手に軽い傷害が残り、以後百合子が原稿の清書や一部口述筆記にあたるようになる」(中)。


〈このあと五十一年夏になるまで、日記はつけていない。〉

〈「富士」を書きはじめたころから病後は、ことさら、雑事を私に任せきった。このころから日記は短くて、大きな字だ。とびとびにつけたりしている。忙しくくたびれて、日記をつけるのが面倒くさくなったのだ。〉『富士日記』1973(昭和四十九)年7月15日の記述後に挿入されている〈附記〉




1976(昭和五十一)

 〈今思えば不思議なことに、五十一年の夏はほとんど欠かさず日記をつけた。〉『富士日記』1976(昭和五十一)年9月9日の記述後の〈附記〉。

 9月16日 泰淳が〈床につき、それからは、いつも床のそばに私はいるようにした。眠っている間は何をしたらいいか、気分がざわざわするので、また、日記をつけはじめた。〉同上。

 9月21日 『富士日記』の記述終り(22日朝までのことを記している)。

 9月22日 泰淳入院。

 10月5日午前1時半(朝日新聞より) 「泰淳、胃ガンおよび転移した肝臓ガンにより死去」*。享年六十四歳。

 通夜の日、『海』の塙編集長が日記を追悼号に掲載することを依頼し、百合子さんは承諾(#)。後のインタビューによると、迷った末だったらしい。

 10日 葬儀・告別式。

 15日 深沢七郎と対談。

これは後に、「武田泰淳、その存在」として『文藝』12月号に掲載される。

($作品リスト」によると、のちに『たったそれだけの人生 深沢七郎対談集』(集英社、1978年)に収録されているそうです)

なお、この対談のことを百合子さんは「わが友 深沢七郎」(1981(昭和五十六)年4月)に書いている。花さんもこの対談に『百合子さんは何色』で言及している。


 「富士日記――今年の夏」 『海』12月号

 「特別寄稿 夫武田泰淳の好きだった言葉」 『婦人公論』12月号

インタビューをまとめたものだろうと村松友視氏は書いている(#)。
$「作品リスト」は談話として記載。


 11月26日 この日付の朝日新聞夕刊「文芸時評 上」(大岡信)に、「富士日記」を評価した上で、〈全ての武田氏の近作を口述筆記してきた妻が、おそらく知らず識らずのうちに体得した文体がある〉という文が掲載される。


 「不二小大居百花庵日記」の連載が『海』1997年1月号から始まる。

終了は10月号。

なお、2月号から掲載ページのタイトルに「(富士日記)」が加わる。


 12月17日 泰淳の『目まいのする散歩』野間賞受賞式。

埴谷雄高氏、あいさつをする(『武田泰淳と百合子夫人』)。

 百合子さんの「受賞の言葉」が『群像』1977年1月号に掲載される。



1977(昭和五十二)

 インタビュー記事「田村俊子賞を受賞する武田百合子

週刊朝日』3月25日号〈青木雨彦の人間万歳〉。

 なお、泰淳は田村俊子賞の選考委員であった。泰淳全集の「月報」にもそのことや百合子さんのことを書いた、瀬戸内晴美(寂聴)氏の文章が掲載されている。

 3月 百合子の「あとがき」が付いた泰淳『身心快楽 自伝』が創樹社より刊行される。


 4月 「椎名さんのこと」が〈月報〉に収録された『椎名麟三全集 第二十巻』、冬樹社より刊行。

 『海』五月号〈編集後記〉に〈なお本誌連載の日記により、武田百合子氏が田村俊子賞を受賞されました〉。

 「卒塔婆小町」『婦人公論』6月号の随筆欄。肩書き〈故武田泰淳氏夫人〉。


 『海』8月号より目次のタイトルが『富士日記』に変わる。

ただし掲載ページの見出しは「不二小大居百花庵日記(富士日記)」、ページ端のタイトルは「不二小大居百花庵日記」のまま。

 「がんばらなくっちゃ映画論」『映画芸術』No.318 8月(8月号のことか?)。

$「作品リスト」によると、談話。


「目次には「武田百合子・がんばらなくちゃ映画論」との記載されていますが、本文では違うタイトルとなってます。

文章でなくて、談話です。」

【「8・9月号」ともども、神無月さんが2004年5月、寄せてくださった情報です。ありがとうございました。】2004/5/16

 単行本『日日雑記』に登場する「O氏」は、『映画芸術』の小川徹氏らしい。ただ『マリ・クレール』1989年5月号では「Hさん」と表記されている。

なお、小川氏とは「世代の会」からの知り合いらしい。


 『海』10月号で『富士日記』の連載終了。

末尾に〈御愛読いただいた武田百合子氏の「富士日記〔不二小大居百花庵日記〕」は十月上旬、故武田泰淳氏の一周忌に(略)刊行されることになりました。昭和四十三年五月以降、昨年夏にいたる未刊の部分は下巻に収録されますので、御購読下されば幸いです。――編集部〉。

〈編集後記〉にも同じ内容の記述がある。


 10月 『富士日記 ――不二小大居百花庵日記――(上)』中央公論社より刊行。

 12月 『富士日記――不二小大居百花庵日記――(下)』刊行。

単行本には〈あとがき〉がつき、花さん撮影の写真などが挿入される。

また、第1冊目の日記帳の見返しにあったという泰淳の書きこみ「不二小大居百花庵日記」が印刷される。

帯文は親交のあった島尾敏雄氏(所収『島尾敏雄全集 第15巻』晶文社 1982年)




1978(昭和五十三)

 『海』2月号で「ロシア旅行――犬が星見た」の連載が始まる。

終了は12月号。

雑誌の表紙とページ端の表記は〈ロシア旅行〉。

〈編集後記〉に〈武田百合子氏は昨年本誌に「富士日記」を連載して好評を博しましたが、今回から始まる「ロシア旅行」はその間奏曲とも言うべきもので、故武田泰淳氏、竹内好氏との一カ月にわたる旅の見聞が独自の文体で記録されます。〉

 「77映画芸術(第13回)ベスト10・ワースト5」の選考者になる。コメントが掲載されたらしい。『映画芸術』No.321 2月(2月号のことか?)。



「これには百合子さんの外国映画のベスト5とワースト1が掲載されており、コメントはないようですね。」

【神無月さんが2004年5月、寄せてくださった情報です。ありがとうございました。】2004/5/16



 第2回「ロシア旅行――犬が星見た」 『海』3月号

末尾に、単行本には収録されていない〈附記〉が掲載される。第1回目の掲載後、ロシア語が間違っているという指摘をいくつかいただいたが、自分の聞いたロシア語を通していくというもの。

 「私の住んでいる町」  『群像』2月号<随筆>欄

($「作品リスト」より追加)

 『週刊朝日』3月17日号〈私の文章修業〉欄に文章が掲載される。

肩書き〈故武田泰淳氏夫人〉。

〈イラストレーション〉は池田満寿夫

のちに『私の文章修業』に収録され、朝日新聞社より1979年刊行($によると、タイトルは「絵葉書のように」)

 「二年目の夏」 『新潮』11月号<新潮>欄

( $「作品リスト」より追加)

 「開高さんと羊子さん」 『これぞ、開高健』「面白半分 11月臨時増刊号」11月2日発売(?)

 1982年、『コレクシオン開高健』の「知る人ぞ知る 三十二人の肖像画集」に収録される(潮出版社


 『海』12月号で「ロシア旅行――犬が星見た」の連載終了。

〈編集後記〉に〈本号で、好評を博した武田百合子氏の連載「ロシア旅行」が完結しました。〉

 12月 武田百合子監修『イメージの文学誌 物食う女』北宋社より発行。

〈まえがき〉として百合子さんの「枇杷」(のち『ことばの食卓』所収)が収録されている。

編集者は堀切直人さん。百合子さんの後のエッセイに登場する「ホリキリさん」。




1979(昭和五十四)

 2月 『犬が星見た――ロシア旅行』が中央公論社より刊行される。

〈あとがき〉が付く。

ビニールカバー付き。

三版の帯には1980年2月1日付の読売新聞に掲載された河盛好蔵氏の文。



 鼎談「マッド・ティーパーティー メリイ・ウイドウのお話 お客様武田百合子 ホステス金井久美子 金井美恵子

話の特集』3月号($「作品リスト」より)

久美子さんの「まえがき」、美恵子さんの「あとがき」つき


 「讃」 『面白半分』1979(昭和54)年3月臨時増刊号・創刊100号記念「とにかく、吉行淳之介。」

1980年1月刊行の愛蔵版所収。「よしゆき賛江」として『吉行淳之介全集 別巻3』(講談社  1985年1月刊行)、「吉行賛江」として『群像 日本の作家21 吉行淳之介』(1991年11月10日)に収録されたようだ。

「海月的には、武田泰淳氏未亡人という肩書きで参加している百合子さんが、神田のランボオ時代のことについて書いた文章「讃」がおすすめ(単行本・作品集未収録)。百合子さんらしい文章です。」古書店・海月書林(市川慎子
)さん


参考サイトとにかく吉行淳之介さん

$「作品リスト」(なお、この本では1980年に記載されている)

 「晴れた日」『潮』4月号〈ずいひつ・波音〉。肩書き〈作家〉。

 「子どものころ」 『思想の科学』103号 1979年4月号<主題 子どもと本・その世界>の<子どものころの本>

主題とは、特集のことらしい。百合子さんの隣のページの執筆者は、家永三郎さん。

 5月 「あの頃」(『遊覧日記』のものとは違う)が月報に収録された『埴谷雄高作品集 9』、河出書房より刊行。


 6月 「思い出」が〈献花花集〉に収録された遠藤麟一郎遺稿追悼文集『墓一つづつたまはれと言へ』、青土社より刊行。


 8月5日 NHKFM「日曜喫茶室」の録音(「はかま満緒のユーモア交友録2 黙って書いちゃった」より)


 「はかま満緒のユーモア交友録2 黙って書いちゃった」に百合子さんのことが書かれる。

『アサヒ芸能』10月18日号

 10月20日より読売新聞〈私の風土記〉欄を執筆。

総タイトルは『味』。

肩書き〈エッセイスト〉。

15回連載。

10月20日「味(1) 豆餅」

(以下、ここでは「味」と回数を省略して記します)


22日「マスカット」

23日「買い食い」

24日「朝御飯」

25日「かき氷」

26日「苺」

27日「うな丼」

29日「正宗白鳥先生」

30日「正宗白鳥先生(続)」

31日「拾い食い」。

11月1日「映画館のアイスクリーム」

2日「水」

5日「かまぼこ」

6日「鮨屋」

7日「会食」。『味』の連載終了。

 インタビュー記事「「食べ物のおばさん」を自称する故武田泰淳氏夫人」

週刊文春』11月22日号〈Tea Time〉。文・辺見じゅん

書評「“物喰う男”の巨きな繭 堀切直人『日本夢文学志』」 『海』12月号

($「作品リスト」より追加)

百合子さんが監修者となり、佳作「枇杷」を寄せた『イメージの文学誌 物喰う女』の編集者堀切さんの本で、9月に出版された本の書評。




 『話の特集』1980年1月号で「テレビ日記」の連載始まる。

毎回(たしか)2ページ。

第一回の見出し「テレビ日記 武田百合子 一九七九年十一月」。

連載は一年の予定(インタビュー記事「人物交差点」)だというが、終了号はまだ確認していない。

なお、『話の特集』〈編集前記〉に百合子さんの近況などが書かれている号もある。

 『海』1980年1月号〈海の手帖〉で「映画館」の連載始まる。

第一回「《映画館》 波と男のココロと体」

4月号まで毎回2ページ。

終了は12月号。



1980(昭和五十五)


 「テレビ日記」  『話の特集』2月号

 「《映画館》 こわぁい、くらぁい気持」『海』2月号。


 2月1日付読売新聞で、『犬が星見た』の第三十一回読売文学賞 随筆・紀行賞受賞が発表される。

選考委員・河盛好蔵氏による作品の紹介の記事がある。

 2月4日付夕刊読売新聞〈第31回読売文学賞 受賞者を訪ねて 3〉に取り上げられる。

 「テレビ日記」  『話の特集』3月号

 「《映画館》 映画暴力にやられた」『海』3月号。

 「テレビ日記」  『話の特集』4月号

 「《映画館》 凸は、やっぱり凄いなあ」『海』4月号。


 インタビュー記事「武田百合子」 『中央公論』4月号〈人物交差点〉。

 談話「すぐ返事が書きたくなるようないただいてうれしかった手紙」

主婦の友』四月号〈レッスンしながら楽しく学べる妻のための「新手紙事典」レッスン2〉のページ。

 「テレビ日記」  『話の特集』5月号


 「《映画館》 宙吊りの骨壺‥‥わからない」『海』5月号。3ページ。


 
 「テレビ日記」  『話の特集』6月号

 「《映画館》 雨の日の三本立、四百円」『海』6月号。

以降、連載終了まで毎回4ページ。


 
 「テレビ日記」  『話の特集』7月号

 「《映画館》 眼が熱っつい、眼が減った」『海』7月号

 「テレビ日記」  『話の特集』8月号

 「《映画館》 犬のような突然のアクビが出て」『海』8月号

 「テレビ日記」  『話の特集』9月号

 「《映画館》 暑苦しい日は、ギャング映画が見たい」『海』9月号


 
 「テレビ日記」  『話の特集』10月号

「《映画館》 音にやられてお腹が痛い……‥」『海』10月号。

 「テレビ日記」  『話の特集』11月号

 「《映画館》 じゅっと蝉が鳴き、一声で止んだ」『海』11月号

 「テレビ日記」 『話の特集』12月号

連載終了

 
「《映画館》その時、トランペットの音が弾けた」『海』12月号。

連載終了








1981(昭和五十六)

 1月 尾辻克彦の文庫『少年とオブジェ』、角川書店より刊行。解説が百合子さんらしい(未確認)。

 「夢、覚え書き」『草月』2月号〈特集 夢〉

 2月、3月、4月 文庫版『富士日記』上中下巻刊行。

解説は水上勉氏。

表紙は泰淳の画帖より。

 日本読書新聞1面の〈わが友〉4月分3回を執筆。

肩書き〈随筆家〉。

4月6日 「深沢七郎 シビンとバケツ 発作で歩くのもやっとだった頃」

13日 「島尾ミホ 眼にいっぱいの涙 端然と座った姿勢のままで」
27日 「山福康政 九州の印刷屋さん ふしぎにおかしい『付録』の著者」


 『ことばの食卓』の隔月連載が『草月』6月号より始まる。

第1回「ことばの食卓1 牛乳」。

連載終了は八三年四月号。

絵・野中ユリ

なお、『草月』はいけばな(華道)「草月流」の機関誌。

のちに『遊覧日記』を連載した『挿花』はやはり華道の小原流の機関誌である。

 「港区赤坂六丁目 ひろがる歓楽街」 6月16日付東京新聞夕刊〈わが町〉に掲載。

百合子さんが階段に立っている写真付き。

 「続牛乳」 『草月』8月号

 「キャラメル」 『草月』10月号

 『遊』10月号 「特集・食べる」のアンケート<24人の私を変えた劇的味覚事件>に回答を寄せる。

【神無月さんが2004年5月、寄せてくださった情報です。$「作品リスト」にも載っていないもので、たいへん貴重な情報だと思います。ありがとうございました。百合子さんのコメントはどんなのか、楽しみです。】2004/5/16



 「お弁当」 『草月』12月号

 深沢七郎との対談「女と男のまな板ショー」

12月21日付日本読書新聞の一面〈シリーズ対談その3〉。


 この年、アメリカへ一人旅か?(「マイ・ドッグ」1982年より)




1982(昭和五十七)

 1月 文庫版『犬が星見た』刊行。

解説は色川武大

 談話「日記」 『クロワッサン』一月十日号〈二つの意見〉。

もうひとりの書き手は山崎豊子氏。


 談話「「身内」「他人」の意識落差」

朝日ジャーナル』1月号(24日号?)「「日本回帰」の深部へ 一人一答 私の「日本回帰イメージ」」


 「雛祭りの頃」『草月』2月号


 「花の下」 4月号連載。


 吉行淳之介と対談。「“好色五人女”のおもしろさ」『婦人公論』5月号。

 「怖いこと」 『草月』6月号。


 7月 「富士山麓の夏」が収録された『大岡昇平集 5』〈月報2〉、岩波書店より刊行。

肩書き〈作家〉。


 「誠実亭」 『草月』8月号


 9月 「開高さんと羊子さん」が「知る人ぞ知る 三十二人の肖像画集」に収録された『コレクシオン開高健』が潮出版社より刊行される。($「作品リスト」より追加)

 「五年目の夏」 『新潮』11月号<新潮>欄

( $「作品リスト」より追加)

 


 「夏の終り」 『草月』10月号

 「京都の秋」 『草月』12月号。


 「マイ・ドッグ」 『小説新潮スペシャル』冬号〈随筆〉欄

アメリカでの話。





1983(昭和五十八)

 「後楽園元旦」 『草月』2月号

 「上野の桜」 4月号

『ことばの食卓』の連載終了。


 「お湯」 『ミセス』五月号〈暮しと住まい5〉の〈リビングエッセー〉に掲載。

TOTOの広告ページか? 

肩書き〈随筆家〉。


 「ニカウ氏のこと」『海』7月号〈言葉の散歩〉。


 『海』8月号で「映画館」の連載はじまる。

「《映画館 1》 『楢山節考』のこと」。

〈編集後記〉に〈とびとびの連載になると思いますが、武田ファンのみなさま、ご期待ください〉。

終了は1984年4月号、全7回。


 「《映画館2》『フィツカラルド』」 『海』10月号。

 「《映画館3》 『青い恋人たち』」11月号。

 「《映画館4》陽のあたらない名画祭」 『海』12月号。


 11月 「思い出すこと」が〈追悼〉に収録された矢牧一宏遺稿追悼文集『脱毛の秋』、社会理論社より刊行。




1984(昭和五十九)

 「《映画館5》 『氷壁の女』」 『海』2月号

 「《映画館6》 『里見八犬伝』」 『海』3月号

 「《映画館7》 『ファイヤーフォックス』と『アニマル・ラブ』」 『海』4月号。

「映画館」の連載終了。


 11月7日 中村稔氏のお母さんへの書簡を書き上げる。

(中村稔「武田百合子さんの文章」『武田百合子全作品2 富士日記(中)』より)

 12月 『ことばの食卓』作品社より刊行。

所収作品は『イメージの文学誌 物食う女』「まえがき」の「枇杷」と、『草月』に掲載された「夢、覚え書き」と、そこに『ことばの食卓』として連載された十二篇。

野中ユリ・画。

1200円。

デザインなど本の雰囲気は文庫本(筑摩書房)とあまり変わらないように思う。

なお、作品社寺田博氏は以前、河出書房新社に勤務していた。1976年の百合子さんと深沢七郎さんの対談(『文藝』の泰淳追悼特集に掲載される)に関わっていたような気がする。


 「歳末」 中村稔氏の母親へ書簡を書く。

(中村稔「武田百合子さんの文章」(既出))より






1985(昭和六十)

 インタビュー記事「鋭い観察眼と新鮮な感性と 『ことばの食卓』」

サンデー毎日』1月27日号〈招待席〉欄の「BOOK街」のページに掲載される。

文・佐野美津子。


 
 1月 「よしゆき賛江」を収録した『吉行淳之介全集 別巻3』(講談社)刊行

 「動物園の午後」 『潮』2月号<ずいひつ波音>

($「作品リスト」より)

 「京都」 『文藝』3月号〈随筆〉欄。

 「あの頃」 『東京人』1986年1月号〈はじめての東京〉に掲載。


 「西京元旦」 『ミセス』1986年1月号〈掌編随想〉欄。


 『遊覧日記』の連載が『挿花』1986年1月号から始まる。

写真・武田花さん。

第一回は見開き2ページ。

見出し〈遊覧日記 浅草花屋敷〉。

掲載されている花氏の写真は三枚(単行本では各回一枚のみが収録されたかもしれない)。

連載終了は12月号。

なお、1981年の項にも書いたが、『ことばの食卓』が連載された『草月』は華道草月流の、今回の『挿花』は華道小原流の機関誌。

ちなみに後年、『日日雑記』の後ろから6つめの「ある日。」にこうある。「デパートへ華道某流派家元の作品展を観に行った。これを見て感想を述べるように、とタダの切符を貰ったので。」。(女性客が)「家元の作品のまわりに群がりたかって動こうとしないので」「だから感想なんか湧かないのだった。」

どこの流派なのか、気になる。



1986(昭和六十一)

 「浅草蚤の市」 『挿花』2月号。

 「浅草観音温泉」 3月号。

 「青山」 4月号。

 「代々木公園」 5月号。

 「隅田川」 6月号。


 「四季・私の――赤坂」 『ミセス』6月号。

8ページ。写真・武田花さんで、掲載写真は7枚。


 
 「すいとん」 『元気な食卓』7月

($「作品リスト」より)

 6月12日から7月15日
単身、還暦旅行としてヨーロッパを旅行。

西ドイツ(当時)・デュッセルドルフ市の修氏を訪問。

のち、「しばしば地図を片手に単独で近郊都市を歴訪」。

「オランダ、ベルギー、スイス、オーストリア、東ドイツ諸国を修夫妻とともに旅行し、動物園、猫博物館、野外市場、サーカス、古物商などに興じる。ベルリンの動物園では本物の虎の仔を抱いて記念撮影」

7月15日帰国。(以上「中」より)

 海外旅行はロシア・北欧、アメリカ(「マイドッグ」1982年)に続き、3度目かもしれない。


 「上野東照宮」『挿花』7月号。

 「藪塚ヘビセンター」 8月号。

 「上野不忍池」 9月号。

 「富士山麓残暑」 10月号。

これは1982年のことを書いたようだ。参照「映画館3『青い恋人たち』」。


 「京都」 11月号。

 「世田谷忘年会」十一月号。

『遊覧日記』の連載終了。

 「Nさんへの手紙」 『風紋二十五年』(『風紋二十五年』の本をつくる会)12月

($「作品リスト」より)




1987(昭和六十二)

 「アメリカ人の手紙」 『中央公論』2月号〈随筆〉欄。

肩書き〈エッセイスト〉。

 4月 『遊覧日記』が作品社より刊行される。

収録作品は、『挿花』に連載された十二篇のほか、『文藝』八五年三月号掲載の「京都」、『東京人』八六年一月号掲載の「あの頃」。

「あとがき」が付いた。

連載時の花さんの写真は各エッセイにつき一枚だけ収録。

表紙も花さんの写真(文庫本と同じ)。

個人的な感想だが、この単行本は文庫本があれば要らない気がする。

刊行時、金井美恵子さんは書評で、紙質が悪い、と批判している。

 「この頃、野良猫写真で知られはじめた花と取材をかねて頻繁に国内旅行。花の写真の個展開催に尽力」(中)

 エッセイ「東京の町」 読売新聞夕刊7月18日「文化」面

肩書き「随筆家」、顔写真、浅草蚤の市の写真(撮影者不明)つき


 インタビュー記事「話題の一冊 深い情愛とニヒリズムが貴重の随筆集 『遊覧日記』」

『週刊サンケイ』〈本のプロムナード〉7月23日号。




1988(昭和六十三)

 1月 小川徹『父のいる場所』、三一書房より刊行。

 書評「眼が洗われたような気持になる本 小川徹『父のいる場所』」  『マリ・クレール』5月号「BOOKTOPICKS」(231ページ)


 『日日雑記』の連載が『マリ・クレール』6月号より始まる。

連載決定には、のちの編集長安原顯氏が関わっていたようだ。安原氏は、泰淳が亡くなったとき村松友視氏とともに『海』編集部だった。

終了は91年4月号。

単行本『日日雑記』の「あとがき」に〈連載中、体の故障が多くて、そのたびに休みました〉。

なお、これより前に和光のPR誌「チャイム銀座」にも同じスタイルの文章が掲載された(発行年月未確認)


 「佐渡大覧」 『旅』1989年1月号

($「作品リスト」より)

「『日日雑記』に書かれている佐渡(ソクちゃんが出てくる)での、武田花さんとの仕事」。『日日雑記』の内容と重なる部分もある。






1989(平成元年) 64歳

 3月 「あの頃 著者に代わって読者へ」が収録された武田泰淳『風媒花』講談社文芸文庫、刊行。

($「作品リスト」より)





1990(平成二) 65歳

 「この頃、痛風や肝臓の不調を訴える」。
痛風は食餌療法で克服したが、肝臓の慢性的不調は続き、通院や漢方で加療に努める」(中)

 2月 小川徹の『エクスポーズミーラブリー』が潮出版社より刊行。
百合子さんが出版に関わったという(1991年『映画芸術』362号における都留昇氏や、いいだもも氏の文章)

 4月 「還暦旅行」が収録された『ちくま哲学の森5』「森の栞7」、筑摩書房より刊行

($「作品リスト」より)

86年6月7月のヨーロッパ旅行時に花さんへ宛てた書簡の一部だとは知っていたが、以前の鈴木修さん作成の略年譜の表記では、探すことができなかった。

また、村松さんの『百合子さんは何色』の「還暦の旅」と同じものではないだろうか。

 「名刀で切りとったような景色 吉行淳之介『町の底で』 私・に・東・京・を・教・え・た・一・冊・の・本」

『東京人』五月号〈特集 東京を読む〉。


 「私と筑摩書房 本郷台町」『ちくま』10月号。








1991(平成三) 66歳

 『マリ・クレール』4月号で「日日雑記」の連載終了。

 8月 文庫『ことばの食卓』が筑摩書房より刊行される。

「あとがき」が付く。

解説、種村季弘氏。




1992(平成四) 67歳

「特集・私の偏愛書 41人によるジャンル別・ベスト10 編集・安原顯」 『リテレール』2号 1992(平成4)年秋号

安原氏は、『リテレール』創刊号(1992年夏号)の「ノン・ジャンル・ベスト10」「にも依頼したが体調が悪いとかで、もらえなかったのだ」 と書いている(「不世出の文章家が書き綴った「日記」 武田百合子 1925〜1993」より)

($「作品リスト」では「ノン・ジャンル・ベスト10」『リテレール』2号(1992年夏号)となっている。

『リテレール』は中央公論社で文芸誌『海』や『マリ・クレール』の編集をしていた安原氏が退社して創刊した雑誌。

 7月 『日日雑記』が中央公論社より刊行される。

収録されたのは『マリ・クレール』88年6月号から91年4月号に連載された「日日雑記」と、それ以前に和光のPR誌『チャイム銀座』に掲載された、同じ形式の文章。

〈あとがき〉が付く。

〈私の五番目の文集です。四番目の『遊覧日記』から五年経ちます。なかみは変りばえがありません。うつむいて差し出します。/(略)文中、飲み食いの条りの多いこと、その蛮食の日日の報いで、いま私は、心臓ほか、あちこちわるくなって養生につとめる身です。/連載中、体の故障が多くて、そのたびに休みました〉。

表紙は花さんの写真(文庫本も同じ)。

 インタビュー記事「「日日雑記」 気ままにひとり、いろいろな所を散策する楽しみ―― 日々の出来事を心の赴くままに記すエッセイ。」

『クロワッサン』10月10日号〈最近面白い本読みましたか〉。


 インタビュー記事「私の書いた本『日日雑記』」
婦人公論』11月号〈BOOKS〉。



1993(平成五)

 1月 文庫『遊覧日記』筑摩書房より刊行される。

〈あとがき〉に〈いまも気持ちはこれにつきるので、そのまま「あとがき」としてのせます〉と単行本掲載時の文章。

解説は巌谷國士氏。


 5月7日、入院。

 5月25日、肝硬変のため逝去。享年67歳。





 7月 井伏鱒二逝去。


1994(平成六)

 9月 村松友視氏の『百合子さんは何色 武田百合子への旅』が筑摩書房より刊行される。

 9月30日 「武田百合子さんを偲ぶ会」 司会・安原顯氏。

 10月 単行本のみを収録した『全作品』七巻の刊行が始まる。

『全作品7』は95年4月刊行。

写真(花さんが撮ったものが多い)とともに、各巻に中村真一郎氏、中村稔氏、いいだもも氏、岸田今日子埴谷雄高氏、杉本苑子氏、赤瀬川原平氏の文章が収録されている。

1995(平成七)

 4月 『全作品』最終巻第七巻刊行。

1997(平成九)

 2月18日 文庫『日日雑記』が中央公論社より発行される。

解説、巌谷國士氏。

 2月19日 埴谷雄高氏逝去。

 4月 文庫『富士日記』上巻の改版発行。

字の大きさのほか、表紙のタイトルの色が変わる。

 12月 中村真一郎氏逝去。


2003(平成十五)  没後10年

 1月 安原顯氏逝去。



2004(平成十六)

 2月 『KAWADE夢ムック 文藝別冊 総特集 武田百合子 天衣無縫の文章家』(河出書房新社、編集人・西口徹さん、編集・大西香織さん)刊行。




執筆時期不明

○「北麓の晩夏から秋」

所収『新編日本の随筆紀行2 山に親しむ』作品社 1998年4月

富士山荘での暮らしが描かれている。「ガソリンスタンドのおじさん」の成長した娘さんのことも出てきた気がする。短いながら“富士日記 その後”とか“十何年後の富士日記”といった感じ。

執筆時期・掲載経緯不明。




私の未入手・未確認作品

百合子さんの作品かわからないものも含んでいます

○雑誌『太陽』の絵本特集に掲載されているという文章 海月書林/市川さん

「別冊太陽 日本のこころ」の『絵本』(平凡社、1984年3月)や『絵本Ⅱ』(1984年9月)でしょうか。ちなみに『100人が感動した100冊の絵本 [1978-97年]』には載っていません(1999年発行)

$「作品リスト」不記載。

○「がんばらなくっちゃ映画論」

映画芸術』No.318  1977年8月号?

○「77映画芸術(第13回)ベスト10・ワースト5」のコメント

映画芸術』No.321  1978年2月号?

○解説『少年とオブジェ』尾辻克彦

角川文庫。1981年2月発行。(1992年2月発行。ちくま文庫

○ 「解説」『芹沢けい介全集 第4巻 物語絵 4』(「けい」は「金圭」)の

中央公論社 1981年4月刊行

なお、芹沢氏は著名な染色家、デザイナー。

$「作品リスト」不記載。

○『遊』10月号 「特集・食べる」のアンケート<24人の私を変えた劇的味覚事件>の回答

【神無月さんから2004年5月、寄せてくださった情報です。$「作品リスト」にも載っていず、たいへん貴重な情報だと思います。ありがとうございました。百合子さんのコメントはどんなのか、楽しみです。】
$「作品リスト」には不記載
2004/5/16


○『世界』1983年2月号

$「作品リスト」不記載。

○『陶藝の美』第12号「特集=ルアン陶磁博物館とノルマンディの陶器」

京都書院 1986(昭61)年1月?

$「作品リスト」不記載。

○「すいとん」 『元気な食卓』1986年7月

($「作品リスト」より)

○「Nさんへの手紙」 『風紋二十五年』(『風紋二十五年』の本をつくる会)1986年12月

($「作品リスト」より)

○「特集・私の偏愛書 41人によるジャンル別・ベスト10 編集・安原顯

『リテレール』2号 1992(平成4)年秋号

○『リテレール』に掲載されたほかの文章(あるのなら)

○「鳩よ!」1991年9月号「妄想の巨人 孤高の81歳─埴谷雄高の世界」掲載のもの

○「還暦旅行」 『ちくま哲学の森5』「森の栞7」(筑摩書房)1990年4月

($「作品リスト」より)

 86年6月7月のヨーロッパ旅行時に花さんへ宛てた書簡の一部だとは知っていたが、以前の鈴木修さん作成の略年譜の表記では、探すことができなかった作品。

村松さんの『百合子さんは何色』の「還暦の旅」と同じものではないだろうか。


○『チャイム』や『マリ・クレール』に掲載されていた『日日雑記』
。『マリ・クレール』のバックナンバーをすこし見たら、単行本化のとき、いくらか削除したようなので。

○『日日雑記』に書かれている「華道某流派家元の作品展」の感想

 かつて百合子さんが連載していた華道の機関誌『草月』か『挿花』の1990年代に出ているのかも知れない。

○「山水鳥話」

 新聞に掲載されたらしい。富士山荘での見聞を記していて、これもやはり完成された百合子調による“富士日記 その後”とか“十何年後の富士日記”という印象だった。

基本的に1999年作成