武田百合子さんプロフィールUP

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1951/Yuriko_Takeda/profile.htmlの転載です。今後はそちらで加筆修正していきます。


武田百合子さん

 夫で、武田泰淳という高名な作家(『ひかりごけ』や『富士』という小説が有名)が亡くなったあと、日記を発表した。その『富士日記』が評判になって、旅行記やエッセイを書いた。物書きとしてのデビューは51歳。

 百合子さんの文章はなんだか他にないもので、魅了される人が後を絶たない。かくいうわたしも高校生のときに出会い、夢中になった。



略 歴

 1925(大正14)年9月25日、横浜市生まれ。

 翌26年は昭和元年。したがって、昭和年間は昭和の年数と年齢がおなじである。

 昭和6(1931)年、のちに百合子さんについて語ったり、年譜を作成してくださる弟さん・修さんが誕生。

 生家は商業に携わる裕福なお家(うち)だった。

 1943(昭和18)年、横浜第二高等女学校を卒業。

 在学中に、同級生のはじめた同人誌『かひがら』に参加し、詩や文章を投稿。

 当時好きだった作家のひとりは江戸川乱歩


女学生のころを、ずーっと通して、私の一番愛読した本。古本屋で探しては、試験中のことも忘れはてて読み耽った、黒地に金粉をなすりつけたような表紙の××××だらけの本。東京の江戸川乱歩氏邸?(きっと東京にあるにちがいない)の方に向って遥拝。
富士日記』昭和40(1965)年7月29日より(乱歩逝去を知って)


 1945(昭和20)年、太平洋戦争(第二次世界大戦)で自宅を爆撃されるが、「奇跡的に生き延びる」(鈴木修さん『KAWADE夢ムック 文藝別冊 武田百合子』)。

 山梨県都留市田野倉にあった札金温泉(現在は移転?)の「一軒家の鉱泉宿」(同)に疎開


臆病者の二十歳の私は、自害など出来そうもないし、もうじきアメリカ兵が山まで上ってきたら、うわあと泣きながら人身御供になろう、と思った。
「あの頃」より(『遊覧日記』所収)


 横浜に戻ってからは、行商したり、東京の飲食店に勤めたりする。そこで13歳年上の武田泰淳さんと出会い、結婚。旧姓は鈴木であった。

 娘さんを育て、家事をしながら、泰淳さんの作家活動を支えた。たとえば、自動車の運転免許を取得して送迎、家に来た編集者をもてなしたり、資料の整理、泰淳さんが口述したものを筆記をしたり、文章を書き、絵を描いて泰淳さんに協力。

 なお、百合子さんは写真で見ると、目の大きなたいへん美しい人である。また、前髪を垂らし、黒い髪をひとつにまとめていたり、晩年の短いヘアスタイルもよく似合っている。服には豹柄だったり、「白い光る服」で「宇宙探検隊みたい」なものもあった(『犬が星見た』6月27日)。個性的で、百合子さんらしい印象を受ける。百合子さんは映った写真を見ると、ますますファンになる作家の一人である。

 1976(昭和51)年、泰淳さん逝去。

 文芸誌『海』(中央公論社)の追悼特集に、泰淳さんに言われて書いていた日記を発表。これには泰淳さんや娘の花さんの日記も含まれている(『富士日記』)。

 ついで、泰淳さん、竹内好さんとのロシア(当時はソ連)・北欧旅行の日記を発表(『犬が星見た』)し、読売文学賞(紀行部門)受賞。

 その後も雑誌や本に文章を書く。

 百合子さんの著者名で刊行された単行本は、上記のほかに『ことばの食卓』『遊覧日記』『日日雑記』。現在のところ、本はこれしかない。百合子さんは寡作とも言われた。しかし、本に収録されなかったものが随分ある。また、対談や鼎談、談話、インタビューもおもしろい。

 1993(平成3)年5月27日、逝去。享年67歳。

 お墓は京都・知恩院の、生前に泰淳さんが書いた「泰淳 百合子比翼之地」という碑ではないだろうか。

 翌1994年9月、村松友友視(示見)さんの『百合子さんは何色 武田百合子への旅』が刊行される。この本によって、百合子さんが10代のとき、詩を書いていたことや、逝去後、遺言により原稿や日記帳、ノートなどが焼却されたことなどが広く知られた。

 同年10月、『武田百合子全作品』全7巻の刊行開始。これは全集ではなく、単行本の再録である。

 それから10年後の2004年、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 武田百合子 天衣無縫の文章家』が刊行された。これは逝去後、はじめての大きな特集である。

 写真家・エッセイストとして活躍されている武田花さんはお嬢さん。