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ささやかな記憶の本棚2

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1951/books/list2.htmlの転載です。今後はそちらで加筆修正していきます。


大塚ひかり『「ブス論」で読む源氏物語 』講談社+α文庫、2000年

 タイトルや、言葉遣いが乱暴(に感じられる)なのは、類書から目立つためだろうか。でも、おもしろかった。

読2003年9月(2004/3/15)





保坂和志『季節の記憶』講談社、1996年

 すばらしいところもある。山も海もぞんぶんに描かれる散歩小説なところ。うらやましい日常生活の描写。Beautiful Story。クイちゃんはかわいいし、将来が楽しみ。美紗ちゃんはすてき。松井さんもいい。

 ところが、不愉快なところがある。周囲の人間を馬鹿にするんでも、ジェイン・オースティンや、田辺聖子さん(日本のジェイン・オースティンと呼んでいる)の小説はおもしろい。この小説でのナッちゃん(幼稚園児の娘を連れて離婚し、実家に戻る)の扱いはひどい。なんだかずるくてイヤらしい。ナッちゃんはヘンな理論を引っさげて現れて侵入してくる嫌なタイプだけど、この書き手はそれをストーカーのように(?)観察して、世間に晒すことができるのだ。

再読2003年11月(2004/7/31修正、3/15)





河合隼雄・松岡和子『快読シェイクスピア』新潮社、1999年

 対談。おもしろかった。

 年末年始、河合隼雄さんの『紫マンダラ 源氏物語の構図』(小学館、2000年)を読んでみた。最初が退屈で投げ出したけど、やっぱり示唆に富んでおもしろかった。

 それでお正月、『浮舟』巻を開いてしまった。緑色の新古典大系『源氏物語』を読むことなんて無いと思っていたからびっくり。宇治の邸に侵入し、浮舟を垣間見る匂宮の目は、銃のスコープ(?)を覗いて照準を合わせるスナイパーみたいだった。恋だとか、情緒だとかで許される物ではない気がした。そして、やっぱり薫は自己中心的で愚かで、空っぽな人物だった。

 『帚木』で夏の夜、侵入し、無理やり関係をもってしまう光君を、色っぽく肯定的に描いた紫式部とは変化している。

読2003年11月(2004/3/15)






ジョナサン・スウィフト『ガリヴァー旅行記』平井正穂・訳、岩波書店、1982年

 富岡多恵子さんが朝日新聞に書いていた、「ラグナグ」国の不死人間(ストラルドブラグ)の記述に興味をひかれて読んだ。大人向けの読み物だったことにびっくりした。

 はじめのリリパット国は「大」から「小」への転換。つぎのブロブディンナグ国はその逆。

 「拡大鏡を用いて実験すれば分ることだが、彼女たちのどんなにすべすべした白い肌でも実はでこぼこで粗く、不気味な色をしているのである。

 そこで思い出すのだが、私がリリパットにいた時には、そこの小人たちの肌の色が世界中で一番綺麗なように私の眼に映ったものであった。」  この、なにかへの激しい嫌悪感がいたるところに見られる。

 ラピュータ国には、音楽や着想(新奇なものの発明、実験)への一方的な耽溺の危険性が描かれている。高度の文明に傲って滅びた楽園の島国、宮崎駿監督の『天空の城 ラピュタ』とはかなり違う。

 グラブダドリッブという島でガリバーは、ホメロスなどの死者と対話する。「三人の王は、自分たちはその治世中一度も立派な人物を用いたことはなかった、もし用いたとしたら、人物判断を誤ったためか、信頼していた大臣の陰謀に引っかかったためであった、と言明した。(略)元来王位というのは腐敗なくしては維持できないものである、なぜなら、道義的精神の塊みたいな男が示すあの負けん気が強くて自信に満ちた頑固一徹な気性などは、政務にとっては終始邪魔になるだけだからだ、と主張した」

 ところで、ガリバーの当初の目的は、日本渡航なのだ! その目的は果たされる。つまりガリバー旅行記には、日本滞在記もあるのだ。

 その前にはこんな記述がある。ラグナグと「偉大な日本帝国との間に、絶えず貿易が行なわれているのはまぎれもない事実で、したがって日本の著者たちが不死人間のことを多少書いたというということは、当然考えられる」  ヨーロッパ文明とは関係ない、極東にある日本(ジパング)って、どうとでも書ける国だったのだなあ。

 しかし、滞在記は量はごくわずかで、おもしろくない。1709年5月27日(?)に江戸。そこで「皇帝」に謁見。「踏絵」の免除をお願い。「長くて辛い旅」をして6月9日、オランダ船にて「ナンガサク」より出航。

 一番圧倒されたのは、最後のフウイヌム国。ここの転換がすごい。スウィフトの名がいまに残っているわけだ。この国で、人間の役割をになっているのは、馬。欲深く野蛮な生き物であり、家畜であるヤフーは、人。

 人間批判はもとより、イギリス批判も痛烈。今と同じ議会政治で、わずか300年前とはいえ変わらない腐敗。人間は進化するためではなく、過ちと腐敗をくりかえすためだけにこの“高等な”脳、“生き物の最高傑作”の脳をもっている気がしてしまう。

 で、ガリバーというか、作者は高潔な馬に肩入れするわけだが、このフウイヌムは完全な階級社会。のし上がろうとするとかの流動はない。ガリバーがイギリスに帰国してからの奥さんへの態度にも?? 通俗さ、愚かさを軽蔑するのはわかるけど、全然立派な人ではないじゃん。ああ本当に、フウイヌムは立派だ。

 ちなみにウルフの小説『オーランドー』における優れた引用(第4章)は、フウイヌム国滞在中の文章。だから「フゥイヌム国への航海の一節を読んでみましょう」(杉山洋子・訳)とあるけど、「航海」ではなく「滞在」にすべきだったのではないだろうか。

読2003年11月(2004/3/15)





ジョン・ミシェル『シェイクスピアはどこにいる?』高橋健次・訳、文芸春秋、1998年

 がーん、教養ある貴族が持ちこむ戯曲の「発掘者兼ブローカー」“シャクスペア”(シェイクスピアではない)

 でも、『リチャード三世』『ハムレット』に感心していたので、納得。暴力団(ぽい)から尋常でない訴訟(?)を起こされたり、シェイクスピアがするとは思えない家紋申請、亡くなってもウェストミンスター寺院には葬られず、お墓に有名人は誰も尋ねて来ず、子孫は文盲だったり、遺言が事務的すぎたりするのも納得。稀有なる慧眼の持ち主と、金貸し、地位好き、犯罪者シャクスペアとは、乖離しすぎている。

 著者は断定してはいない。さまざまな別人説を客観的に検証し、ときには答えを保留にするだけだ。彼がわずかに描いてくれた文学者像はこんな感じ。

 「尊敬すべきシャクスペア氏に一瞥を加えるのもこれが最後となる。(略)劇場のわきのオフィスにすわっている。戯曲に取り組んでいるところだ。(略)入手した作品はすばらしいが、作者は明らかに専門の劇作家ではなく、そのままの形では、いまの劇場には向かなかった。シャクスペアはそれをどう処理すべきか知っていた。彼は、忘れ去られている古い台本から、機知にみちたせりふの出てくる場面を頂戴した。(略)つなぎ目を隠すために、大胆で下品な自作のせりふを加えた。(略)そのあと、当然のことながら、同一の筆跡となるように、彼はすべてを書き写さねばならなかった。それはきれいに仕上がり、俳優たちは、どうして一行も書き損じないのかと彼をからかった。」

最後の部分は、シェイクスピアの原稿には推敲の後がなかった、というエピソードをふまえている。この本を知らなければ、私にはそれも天才の証に見えただろう。

 実際にシェイクスピアの正体がどんなかはわからないけど、この本には納得してしまう。わたしはこれまで、彼は「言葉の魔術師だ、もし現代に生きていたら、表現活動に厳しい評論家ともなっていただろう」と思っていた。でも、この本を読んだら、一人物と信じてたのが恥ずかしくなってしまった。

 また、この本の描く当時の劇、お芝居、戯曲のありかたは、それこそ文学盛行の時代のありかたに見える。せっせと書く貴族。それを一般向けに仕上げるプロデューサー。

 ともあれシェイクスピアが、外見はくたびれた中年男性なものの、今まさに後生に残るフレーズを書き付けている作家として描かれ、重要な役割をになっているウルフの『オーランドー』の記述に対する信頼(?)は、めちゃくちゃだ。

読2003年11月(2004/3/15)





井上ひさし『頭痛肩こり樋口一葉』集英社、1984年

 水村美苗さんの『私小説 From left to right 日本近代文学』『手紙、栞を添えて』(辻邦生との往復書簡)の印象的なコメントに引かれ、『にごりえ』を読んだ。すばらしい!!

 そこで、一葉についての文章を探したら、この人の解説が好かったので借りた。でも、今ひとつ。よかったところもある。

 玉の輿に乗った八重が自分勝手な夫に疎まれ、売春婦になって、「お力」のせりふを喋り始めるところ。対する夏子(一葉)のセリフ「婦人の宿が日本国中に何千何万とできたところで救われないものは救われない。つまらなくて、くだらなくて、面目なくて、なさけなくて、悲しくて、心ぼそいのは、わたしたちが人間だからよ」

 それから、名門の旗本(明治だから、元旗本)の娘、稲葉鑛が「お初」になるところ。その貞女ぶりへの批判に納得。

 それから、やはり夏子のせりふ「でもわたし小説でその因縁の糸の網に戦さを仕掛けてやったような気がする」 

 この戯曲が今一つなのは、なんでだろう。ひとつ思ったのは、小説、文学は本当の出来事を書き写すんじゃないということ。たしかに、お力は、文学が現実を昇華したものではある。でも、あのお力のせりふこそは、現実の引き写し、模写、録音なんかではなく、一葉のなかから出てきたものではないのか。

 お力のせりふが幽霊(花蛍)のものだったらよかったかな。あと、幽霊は、一葉の意識だとか。

 このころ、『リチャード三世』(小田島雄志・訳、 白水Uブックス、1983年)に私は感動していた。でも、作者がウィリアム・シェークスピアっていう先入観によって、すばらしいく思えるのかと疑っていた。現代にだってすばらしい戯曲はあるはずなのだから。(わたしは自分の懐古主義、保守主義を恐れている)。でも、この『樋口一葉』は及ばなかった。やはり、シェークスピアはすばらしい。偉大な魔術師だ。

 この後、三枝和子『ひとひらの舟 樋口一葉の生涯』(人文書院、1992年)を読んだ。資料をすべて注ぎ込んでいるわけでもない(後で、一葉が亡くなったとき、あまり同情されなかったことを知った)のだけど、良かった。伝記でも、小説でもないような感じも印象に残った。

読2003年11月(2004/3/15)


【付記】

 文学は本当の出来事を書き写すんじゃない‥‥。
逆も言えるのではないか。文学作品をすべて解明しようとした作品は、場合によっては浅く、つまらなくなってしまう。

 大岡昇平の『ハムレット日記』。シェイクスピアの『ハムレット』小田島雄志訳に夢中だったので(20代初め)、喜んで取りかかった。正気の青年皇太子の偽装、民衆にかつがれたレアティーズの革命。錯綜し、謎の多いあの話とちゃんとつながる裏が張り巡らされていて、すごい。

 ところが、飽きてきた。たしかに『ハムレット』とずれず、一本筋が通っているし、深い設定、観点ではある。しかし、一つの観点によって、解釈しているので平板なのだ。『ハムレット』には及ばない、と思った。

 すばらしい文芸作品は、いろいろな裏を考えさせ、いろいろな解釈を受け入れる、大きなものなのだろう。海であり、後世の書き手の考えを映し出す鏡。(だから結んだ像は一面的で平板になるのだろうか)

 実際にどういう小説なのかわからないけれど、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』を現代に置き換えて、女性の生き方を浮き彫りにする小説群があるらしい(青山誠子『女たちのイギリス文学』より)。翻案(?)される『ジェイン・エア』は成長し続ける小説、ということだろうか。

 設定がDNAのように受け継がれている例として、オルコットの『若草物語』を想起させる個性的な4人、そのほかの姉妹ものも思いうかぶ(金井美恵子『恋愛太平記』、幸田文『きもの』)。エンターテイメントにも結構ある。

 “姉妹物語”の原型は、フランス革命のころのジェーン・オースティンの『高慢と偏見』(5人姉妹)、『説得』(説き伏せられて。3人姉妹)などだという意見を読んだことがある。(2004/3/17)
 






中岡洋、内田能嗣・編著 『アン・ブロンテ論』開文社出版 、1999年

  読2003年11月(2004/3/15)

  ほんの感想エミリーとブロンテ姉妹の本




イサベラ・バード『日本奥地紀行』高梨建吉・訳 東洋文庫、平凡社、1978年

 外国人、いや、欧米人が見た、明治時代のふつうの日本人の姿を読みたかった。ラフカディオ・ハーンの『小泉八雲名作選集 日本の心』(平川祐弘・編、講談社学術文庫 、1990年)は「旅日記から」はよかった(繊維など、物の生産で他国を凌駕している今の中国みたいだったところも興味深かった)。しかし生活の描写が少ないようだったし、柳田国男の『遠野物語』みたいな話が気味悪くて、ちょっと失望。ハーンの奥さん、小泉節子さんが『思い出の記』で描く、繊細な風流人ハーンのほうがずっと、私が知りたかった城下町の日本人ぽい。

 そんなわけで、明治日本の風景を知りたくて、この本を思い出した。しかし、細かい描写にくじけてしまって、本州(東京から日光、新潟、東北地方)からの手紙のうち、一部を読んだだけである。それでも、明治(11年、1978年)版“奥の細道”のようでおもしろかった。

 新聞の書評にも書かれていたけれど、著者は日本人の生活や建築などに強い好奇心をもち、治安の良さなど、いくつかの点は絶賛してくれている。しかし、山村の人々の皮膚病の多さ、不潔な暮らしも報告され、そんなにひどかったのかと、現在の生活との落差に驚いた。作者のイギリス賛美と、日本人への軽蔑はしかたないとしても、事実だったと思われるからだ。

 眠っている部屋に入ってまで、異人を観察する住民がすごい。

 この時代に、外国人女性が日本人の若者一人と旅行していたことには強い興味を引かれる。ほかの外国人観光客なんて、いないのだから。しかもブロンテ姉妹と同じく牧師の娘で、エミリーとは15歳年下なだけなのだ。ブロンテ姉妹は貧しくはないけど、将来に対して不安で苦しい生活だった(このころ、ちょっとだけ読んだ川本静子『ガヴァネス(女家庭教師)―ヴィクトリア時代の「余った女」たち』(中公新書、1994年)や、ブロンテ姉妹の評伝より)。そしてみんな、病で死んでしまった。イザベラだって独身だった、でも日本にまで来た。この違いはなんだろう?

 イザベラの勇気と現実的な対処能力、快活さ、そして好奇心に乾杯。

 この後『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』(時岡敬子・訳)も開いてみたが、王朝時代の美術・工芸・骨董は取り上げられていなそうなこともあり、挫折。欧米の文物を尊ぶ成金のようになってしまった両班(ヤンバン)?や、日本人と同じようなすごい好奇心をもって、ぐいぐい接近してくる住民のあたりまで読んだ。記述は詳細で、まるで探検家や学者である。現地の男性を使って船に乗り、川を行くんだから、やはりすごい。

読2003年11月(2004/3/15)



J.R.R. トールキン『指輪物語』第1部『旅の仲間』評論社

  読2003年11月

  ほんの感想『ホビットの冒険』『指輪物語』 2004/3/17




吉野俊彦『「断腸亭」の経済学―荷風文学の収支決算』日本放送出版協会、1999年

 テーマはおもしろい。重複や個人的な思い出をもっとカットし、研究書と一般向けの本とのハーフぽくなればよかったのに、と残念。それも、有名な出版社なのに。感想は山月記にも少し書いた。

読2004年1月(2004/3/15)



トールキン『指輪物語 旅の仲間』下巻

  読2004年1月

  ほんの感想『ホビットの冒険』『指輪物語』 2004/3/17





青山誠子『女たちのイギリス文学』開文社出版、2003年

  読2004年1月(2004/3/15)

  ほんの感想エミリーとブロンテ姉妹の本




『指輪物語』第3部『王の帰還』

  読2004年2月

  ほんの感想『ホビットの冒険』『指輪物語』 2004/3/17





ヤコポ・ダ・ポントルモ(Jacopo Da Pontormo )『ルネサンスの画家ポントルモの日記』中嶋 浩郎 ・訳、宮下 孝晴・解説
白水社 1991年 新装版2001年

 6年くらい前だったか、国立西洋美術館でエルミタージュ美術館の所蔵品展に入った。フラ・フィリッポ・リッピの絢爛な宗教画(豪華な服をまとったおじいさんが小川にいた記憶がある。小品)や、裸のエヴァ(イブ)がりりしい男にしか見えない絵や、猟犬が立っている小箱だったか、などがあった。その会場で、べつの展示室に入り、右がわの縦長の絵をふと見たら、暗がりに立つ幽霊が描かれていた。ところが、タイトルには聖母像か、三位一体とあるではないか。「こんなにうつろな目をして、無気力そうで、背後霊にしか見えない人を聖人として描くなんて」と、大変びっくりした。それが、ポントルモの作品だった。

 この本は、「×日 夕食に卵の魚を食べる」というような記述がつづく。挿入されている出来事はせいぜい、友人と会ったり、でも、一緒にごはんを食べなかったり、街の食堂でいくらか払ったか、絵画のどこを制作したか、家事手伝いと揉めたりという、些細なもの。

 日記のうしろに収録されている彼の手紙(彫刻と絵画とどちらが優れているかの見解を評論家?ベネデット・ヴァルキに述べたもの)は、控えめで謙虚な物言いのうちに、言葉とレトリックを駆使して、自分の主張を伝えている立派な小論文である。ポントルモは他人が見ると、こういう人物で、健康に対する戒めを冒頭に置く“ポントルモの日記”は、彼が義務としてメモした健康日誌だったのではないか。

 とはいえ、友人の間では出ていたかも知れない彼の一面が、しっかりと表れているのは確かだ。ポントルモは、自分の健康に強い関心をもっていた。それは異常とまではいかないまでも、強迫観念に近い感じ。とっても自分の体を大切にしている。

 また、単調な記述、平穏を望んでいる態度は、彼の描くフレスコ画の、色の面を思わせる。

 ・・・なーんて、絵も心理学もわからないのに思った。

読2004年2月(2004/3/15)




斉藤美奈子『あほらし屋の鐘が鳴る』朝日新聞社 1999年1月刊行

『uno!』に連載されていた女性誌評にも再会。やっぱりこの人のコメントはおもしろい。







斉藤美奈子『モダンガール論―女の子には出世の道が二つある』マガジンハウス 2000年12月刊行

『文壇アイドル論』よりも、『文章読本さん江』に近いか。最初の方は、社会に関する資料をたくさん集めてまとめ、短いておもしろいコメントを加えた感じ。新しい女性は活躍の機会を求めて、戦争に賛成していた、と教えてくれているところが印象に残った。地域の婦人会?の活動は、ふだん家から出られないお嫁さんには楽しかった、という証言あり。わかる気がする。

 社会科、近代史のサブテキストになれそうな本ではないだろうか。

読2004年春(2004/8/13)



『本を読む少女たち―ジョー、アン、メアリーの世界』シャーリー フォスター (Shirley Foster)、 ジュディ シモンズ (Judy Simons)、

川端 有子訳 柏書房 2002年9月刊行

 タイトルを見て、「これは読まなければ」と手に取った。読んでよかった。現在の児童文学研究の一端を知れたように思ったし。

 一番の収穫は、英語による一時期の、少女が主人公の児童文学が単なる大人の読み物へと手ほどきしてくれる通過的な読み物ではなかったこと。あれらは、それ自体で存在している、とくべつな小説だったのだ。『赤毛のアン』も『あしながおじさん』も、わたしは大人になって再読し、初めて内容に出会った。すばらしさに気づいた。しかし、いつ読んだかではなく、内容がとても大事なのだと思う。わたしはジョーもふくめた“本を読む少女たち”に縛られてきた感があるからだ。

 この本に書いてある根本的な姿勢をアメリカの大学で学んできたのが、『私小説』『手紙、栞を添えて』の水村美苗さんではないだろうか。

 なお、本を読む少女の物語は、日本にもある。『更級日記』だ。田辺聖子さんは、この書き手が源氏物語をわくわくしながら読むくだりを引いている。わたしは子どもの時、この古典をまんがで知って、忘れられなかった。本が好きな少女は不幸になる、と思って怖かったのだ。

読2004年春(2004/8/13)




梨木香歩『家守綺譚』新潮社 2004年1月刊行

感想はこちらに書いた。

読2004年7月(2004/8/13)



瀬尾まいこ『図書館の神様』マガジンハウス 2003年12月刊行

 図書館好きは手に取るだろうか。教員志望者が読んでも、すごくいいと思う。

 考えていたのと違ったけどよかった。妬ましくもある。とはいえ今は、あまり印象に残っていない。うっすらと幸福な感じの小説だった。

読2004年8月(2004/8/13)


梨木香歩『からくりからくさ』新潮社 1999年5月刊行

『家守綺譚』を読んで、この作家の和風の暮らしの物語を読みたくなった。謎解きも織りこまれていて、けっこうよかった。“妊娠小説”になっているところには、ちょっと笑ってしまったが。

読2004年8月(2004/8/13)


河島弘美『ラフカディオ・ハーン―日本のこころを描く』岩波ジュニア新書 2002年7月刊行

 ハーン(小泉八雲)のことを好きになってしまった。ハーンの文章をぱらぱら読んだときと違って、すばらしい文章家だと思うようになった。

 生涯がコンパクトにまとまり、よい入門書。引用したハーンの文章に対する筆者の感想は、たどたどしい。ハーン没後の家族のこと、とくに画家・清氏のことも知りたかった。

読2004年8月(2004/8/13)


森進一『ホメロス物語 イリアス・オデュッセイア』岩波ジュニア新書 1984年8月刊行

 阿刀田高『ギリシア神話を知っていますか』(新潮文庫)とはちがう味わい。あちらはいろいろな話題を盛りこんだ、手練れによる短編集みたいなもの。

 こちらはトロイア戦争の概略がわかっていい。それに、順番に叙述されているだけでなく、箇所に応じて、話題を詳しく取り上げている。あと原文を訳した、登場人物たちの言葉もよかった。真理をついていて、名言という感じ。筆者の言葉にも印象に残るものがあった。

「それにしても、なんという悲惨な結末でしょうか。しかし(略)ギリシア側にとっても、その勝利は、大きな犠牲をはらって得たものだったと言わなくてはなりません。しかし、これが戦争というものなのです。」

 なおわたしは、まじめで不器用そうなヘクトルがどうしても好きみたいだ。

 トロイア戦争の話は、ほかのギリシア神話と違って、悲惨な死や結末が多すぎるからだろうか。そこに神々の手が入っていると、じれじれしてしまう。ただの死であれば、これほど、どうしていいかわからない苦しみは感じないだろう。

読2004年8月(2004/8/13)