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オースティンとハーンと漱石

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1951/Jane_Austen/Lafcadio_Hearn.html
の転載です。今後はそちらで加筆修正していきます。


ジェイン・オースティンとラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と夏目漱石

 2004年はラフカディオ・ハーン(ヘルン、小泉八雲)没後100年。ちなみに2000年で生誕150年を迎えた。

 ジェイン・オースティン(Jane Austen)を日本に紹介した人物としてよく挙げられるのは夏目金之助、千円札に肖像が印刷されている、かの『吾輩は猫である』の作家・夏目漱石である。

 しかし、それよりも早くに紹介したのがハーンだった(『ジェイン・オースティン「世界一平凡な大作家」の肖像』大島一彦)。ハーンは今から100年前の20世紀初頭、こんなふうに語った。



この期の女流作家の場合には、ただ第一級の人のことだけを扱っておけばよいのではないかと思う。

(略)

(ヴィクトリア時代)になると、数百と言わず、数千の女性作家があらわれる。けれどもそれ以前には目ぼしい人は半ダースといない。またそれらの中でも、本当に重要だと思われるのはさらにその半分くらいしかいない。

(略)

(ミス・バーニーに続く女流作家は)エッジワス、フェリアー、オースティンである。この中ではオースティンがいちばん大きい。

話のついでに言っておくが、彼女はけっして二流の作家ではない。シェイクスピアにも比すべき存在である。少なくともフィールディングには匹敵する、生活のようすや経験の範囲は彼よりずっと狭いものであったけれども。

(略)

世間のことはほんのわずかしか知らなかった。また見聞も少なかった。

彼女自身、自分の作品のことを二インチ四方ほどの小さな象牙板に施されたきれいな彫刻だと言っている。これは実にうまい比喩だ。

なるほど、その象牙の板は小さいかもしれない。だがそれを彫った職人は、古今の人間の描き手のうちでも最大の一人だった。前も言ったが、オースティンがフィールデングやサッカレイに劣っているのは、ただ、彼女の人生が狭かったというだけのことである。

(略)

さらに女だてらに小説を書くことに対する偏見が家族の中にさえあった。

(略 デビューが遅かったことや、「最後の三つの小説も死後にならないと本にならなかった」のはそのせいだ、という説がある)
 
だが、この小説を委嘱された本屋が出版をためらっていたことも事実である。それはあまりに繊細すぎた。

今日でさえ、文学的教養が十分でないと彼女の小説の並はずれた長所を理解することはできない。ありふれた人たちには理解が届かないのである。表面的にはともかく、その内面の意味の理解は。

(略 6つの長編を提示)

このうちどれが一番よいかとなると、(サッカレイの小説同様)難しい。すべてよい。が、『高慢と偏見』がいろいろな人の意見では一番よいということになっている。それは一人の若い娘が貴族の求婚をしりぞけるが、それは相手が自分の家族に失礼なことをしていたからだったという話。それだけのことである。これだけではずいぶん面白味のない話のような印象を受けるかもしれないが、面白くないどころか、シェイクスピアの芝居のあるもののように面白い。実際、人物たちの劇的な真実といきいきしたようすは、シェイクスピア的と言っていいくらいだ。あなたがたにはむしろ『分別と多感』の方が適当かもしれない。

(あらすじの説明略)

『説得』もまたおもしろい。

(あらすじの説明略)

それでも私はやはり、あなたがたにはオースティンのよさは本当には理解できないのではないかと思う。少なくとも彼女の作品は一つは読んでおかなければならないが、そこで描かれているような生活、人々、悩みや愚行などは、あなたがたの多くには奇妙に思われるのではないだろうか。作中人物に共感を感じられなければそれを読んでもあまり益にはならない。

もしオースティンを好きになれたとしたら、それは、ところどころにちょっと日本の娘を思わせるようなやさしい人物が描かれているからではないかと思う。オースティンはとりわけ若い娘の作家だった。何も少女小説の作者だったというつもりはないが、彼女は若い娘を驚くほど理解し、彼女らの性格の描き方や、ある状況のもとで彼女たちがどういう行動に出るかなどの提示の仕方をよく心得ていた。

(略)

彼女は行動させ、話させることによってその人間を描く。

(略)

本当によい娘、やさしい娘というのは世界じゅういたるところで大体同じだ。だからオースティンの作中人物がイギリス的であると言っても、それらはまたときに日本人のように見えることもあるだろう。

『英文学史』「Ⅸ 前ヴィクトリア時代の散文――小説」[女流作家]より

野中涼・野中恵子訳『ラフカディオ・ハーン著作集 第十二巻』(1982年12月発行)

( )内はわたしが書いたもの、また適宜改行した

 この激賞。オースティンの日本への紹介としては、漱石の、「Jane Austenは写実の泰斗なり。平凡にして活躍せる文学を草して技神に入る」で始まる文章に匹敵するだろう。

 これは講義録で、正確にいうと、受講生のノートを後年、「元に編集したものだという」(野中恵子)

 ハーンが東京帝国大学の教室でオースティンを激賞したのは、1901(明治34)年1月から、いわゆるお雇い外国人を減らす方針によってリストラされた03年3月までのあいだ、と思われる。突然解雇されたハーンは失意に陥ったが、早稲田大学で講義することになったものの、まもなく死去した。54歳。

 さて、ハーンが東京帝国大学で教えていたころ、漱石はロンドンにいた。国費留学ではあったものの極貧で、精神的にもつらい生活を送っていた。1901年にヴィクトリア女王の葬列を見た。1902年に帰国して、ハーンの後任の講師に選ばれ、イギリス文学の講義を引き継いだ。ちなみに、熊本第五高等学校でも、漱石はハーンの後任だった。

 ところが東大では、ハーンの情緒豊かな講義とはちがう理論的な講義に対し、ハーン解雇反対運動をはじめとする、物凄いブーイングが起こった。たとえば、“老いらくの恋”でも有名な川田順とその仲間は授業をボイコット。

 漱石は長いあいだストレスに苦しんだ。学生に嫌われるというのは、つらいことだろう。『吾輩は猫である』にも、学校の先生は嫌な仕事だということが描かれている。しかし、漱石の講義は退任(朝日新聞社への転職)前には好評を博すようになった。

 ハーンの『英文学史』は1927年刊行だそうなので、漱石は読んでいない(1916年死去)。漱石がオースティンを激賞している『文学論』(文學論)の構想は、ロンドンで日本人科学者と出会って、生まれたという。

 しかししかし、漱石(金之助)はハーンのオースティン評というか、オースティンに関する日本人観を知っていたのではないか。そうすると『文学論』でのオースティン激賞の片面、あるいは日本のインテリの成長が見えてくるようなのだ。

 ハーンは、オースティンを称賛しただけではない。オースティンのある小説を薦めた。その彼のイチオシの作品は、世界の多くの人が代表作とみとめている、機知と明るさに富んだ『高慢と偏見』(自負と偏見)ではない。欠点がやや目立ち、生硬なところのある『分別と多感』。

 もっと引っかかる点がある。ハーンは、オースティンを高く評価しながら、「それでも私はやはり、あなたがたにはオースティンのよさは本当には理解できないのではないかと思う」と述べたのだ。

 日本の松江(島根県)、熊本県や東京などに、欧米にはない情緒を見いだし、熱愛していた彼には、日本が倫理的で繊細な国、欧米とは異なる神秘的な国に思えたのだろうか。ただ、前に、「文学的教養が十分でないと彼女の小説の並はずれた長所を理解することはできない」と語っていることは無視できない。

 もしかしたら差別、ちがう言い方をすれば、「自分とは違う」という強烈な意識、あるいは「恋は盲目」という言葉にあらわされるような無理解に近いものがあったろうか。

 一方、『分別と多感』を薦められ、「それでも私はやはり、あなたがたにはオースティンのよさは本当には理解できないのではないかと思う」と、“オースティンを理解できないだろう宣告”をされたのは、極東のせまい島国の、中流以上(もしかしたら地主階級?)の家庭に育った男子学生たちだった。たしかにイギリスの都市と田園に生きて、恋愛する紳士や、地主・男爵の娘たちとは、人生経験が異なる。

 ハーンは、彼らにオースティン小説入門をほどこしてはいる。それは、ヒロインに日本人の若い娘らしさを見出すこと。


 対して、漱石の激賞はどうだろう。

 彼は「余云ふ。Austenを賞翫する能はざるものは遂に写実の妙味を解し能はざるものなりと。」と書いた。オースティンの写実のすばらしさを論じ、その雄として『高慢と偏見』を評価した。漱石はオースティンを対等に評価している。

 おなじく明治時代の日本人にオースティンを紹介しながら、ハーンとはかなり反対ではないだろうか。100年後に生きているわたしからすると、ハーンには確信できなかった日本人のものの見方の確かさを、はっきりと打ち出してくれたように感じる。

 もともと、漱石は自分の資質や志向から、オースティンを尊敬していたのだろう。オースティンの描くふつうでいて妙味のある生活、人生は、「則天去私」の世界につながるだろう。

 しかし、それだけではないのでは、と、ヤジ馬のわたしは思うのである。

 彼は情感豊かな人物でもあった。『文学論』の「序」では、英文学と関わった半生について、学術書の著者としても、常識的な一般人としても、おどろくほど個人的な感懐、はっきりいえば憎悪の念を吐露している。(漱石も苦労していたのがわかって、わたしは好きだ)

 また、前述したように、ハーンの後任に選ばれ、苦労したのだった。

 漱石のオースティン論は、オースティン作品を理解し、自分の文学観に適うものとして沈潜し、練り上げた考察だ。それを織りこんだ『文学論』を発表したとき、もしかしたら研究者としても小説家としても、そして日本人としても、ハーンを克服したような反駁し得たような、俗っぽく人間くさい思いが漱石、いや夏目金之助の胸にチラリともよぎらなかっただろうか?

 わたしは、漱石のオースティン激賞と、小説『坊っちゃん』への織りこみ(とわたしが思っている)の裏にはハーンの影が・・・と邪推している。




 ・・・などと書いた後、こんな言葉を見つけた。

「漱石は自分の前の東大講師で優れた文学者だったハーンにコンプレックスを感じ、一矢を報いようと文学的な腕前を同じ主題で披露したのが『夢十夜』ではなかったか」

平川祐弘氏(96くまもと漱石博の国際シンポジウム「世界と漱石」)こちら


 『文学論』は、夏目金之助のイギリス文学研究への「さよならの書」ではないか。しかし、夏目漱石のハーン(の作品・言葉)に対する思いは続いたようだ。

 ハーンは、ヨーロッパの島に生まれ育ち、物書きになりたいという強い思いを抱いて、いくつもの海を渡った。その隻眼の人は日本に来て、滞在わずか14年で亡くなった。彼はその間、日本の民間に伝わる話・伝承や、急激に開化が進んで工業国となりつつある日本社会について、欧米へ書き送った。欧米の地で、母語・英語による自分の本が出版されることを喜んだだろう。

 彼にとって日本は、エキゾチックな異国であり、基本・ベースは欧米にあったと思う。日本への思いは恋にも似ていて、しばらくしたら熱狂は醒め、現実が目に入って、幻滅するようになったのではないか、とも聞く。

 なお彼については、奥さん小泉節子(セツ)さんの回想『思い出の記』もすばらしい。(青空文庫にもあります。こちら)



Jane Austen  ジェーン・オースチン(1775-1817)

Lafcadio Hearn  ヘルン 小泉八雲(1850-1904)