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『ゲド戦記』ル=グウィン

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1951/books/Earthsea.htmlの転載です。今後はそちらで加筆修正していきます。

変貌するアースシーの世界

アーシュラ・K・ル=グウィン(Ursula K.Le Guin)

清水真砂子訳  岩波書店

 このシリーズを好きな順にあげたい。


第4巻『帰還』

 『こわれた腕環』では、十代の繊細で無力だったテナー。ところがこの巻では、ゴント島の農民と結婚して、寡婦になった中年女性として登場する。しかも、田舎のせまい共同体に確固たる地位を築いて、召使いもちゃんと使い、自給自足を支える家事にも有能な農場主。

 びっくりして、なかなか入り込めない。それに、はじめはテナーの描かれた方が有吉佐和子の“和歌山・紀伊国物”のようで、新鮮味を感じなかった。

 しかし結局、いちばん好きな作品になった。何回も開いて愛読したし、影響も受けた。

 怒りそのものであるような、燃え上がる炎や、自由の象徴であるような、バラ色の光に満ちた天上世界の表現が好きだった。それから、偉容を放つカレシンの金色(黄色)の目も、強く印象に残った。

 大海原に面したゴントの切り立った岩壁も、生活者としてのテナーとハイタカの日常の姿も好きだ。

 それだけではなく、自分の中でこの小説がぴったり合う、必要としている時期だったのかもしれない。作者にとっても、アメリカ社会、および全世界に対する考えと希望が、この作品に現れているのだろう。テルーの存在は、怒りと、新しいものを生み出す破壊に思える。この架空の世界では、新しい幸福な世界は、虐待され続け、地域でも憎悪される弱い存在から、始まるのだ。

 とちゅうで原題を目にし、結末の一部がわかってしまって残念だった。

 赤い箱入りの単行本を購入。このシリーズでは、青い(濃い水色、ターコイズブルーの)『アースシーの風』とともに好きな装幀だ。ゲドの横顔を版画で(?)描いた1巻は好きではない。

 それから、ただ一人の白人テナーが作者の分身の一つに思えてしまうこと。わたしはテナーの葛藤や家族をめぐる悩みにおいて、作品に入ることができる。

 なお、白く光る星「白鳥の心臓」「矢」「テハヌー」は、夏の夜空に輝く木星がモデルだろうか。
(“TEHANU − The Last Book of Earthsea ”1990)


第1巻『影との戦い』

 フェミニズムに基づいているファンタジー、という紹介に興味を持って、はじめて読んだゲド戦記。ところが、女性の魔法使いは無知として貶められている。というか、女性は才能があっても、「魔法使い」とは認定されないのだ。ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』のように、性的な魅力をふりまく魔女も登場して無残に死ぬ。どこが? と腹が立った。

 しかし、それでもすばらしくて、「傑作だ!」と夢中になった。優秀でありながら、傲慢な少年がオジオンと出会って教えられるところ。ロークの学院では鼻っ柱の強さから、孤立するところ。「エルファーラン」を呼び出してしまうところ。カラスノエンドウ(エスタリオル)との友情。寂しい孤独な放浪のとちゅうで、カラスノエンドウと再会するところ。

 ちっちゃな竜ハレキを腕に巻いたノコギリソウ(メダカ)の愛らしさ。(この巻を読んだときは、ゲドと結婚してほしかった。ところがその後、強力なヒロインが出てくるのだもの。ノコギリソウがどんな人生を送ったのか知りたい。「ゴントの女」ならぬ「東海域の女」としてしっかり生きていることは間違いないと思うから)

 最後の島でヒスイがあらわれる場面を、ノートにえんえん書き写したこともあった。

 物には「真の名まえ」があるという考えも、物事の真理を表す文学の言語のことを指している気がして、魅了された。

 『エアの創造』とついた巻頭詩はもちろん、暗記した。


ことばは沈黙に

光は闇に

生は死のなかにこそあるものなれ

飛翔せるタカの

虚空にこそ輝ける如くに

 このすばらしい成長物語の存在があるから、おなじファンタジーの有名作でも、『ハリー・ポッター』を愛せなかった。1巻でやめてしまった。ハリーは努力しない。血筋だけによって、才能と幸福が与えられているように思えてしまったのだ。

 ゲド(ハイタカ)の設定は、作者のお父さんが出会い、お母さんが本を書いたネイティブ/アメリカンの「イシ」がモデルのようだ。

 ヘグは宮崎駿の『風の谷のナウシカ』のテトを想起させた。光と影、闇の相克という点でも、宮崎駿は影響を受けているらしい。

 『風の谷のナウシカ』はオタク(ヘグ)の生れ変りとしてうれしいが、このけなげな愛すべき小動物をめぐるエピソードの結末においては、『影との戦い』が断然優れている。

 初読2000年8月くらい




第2巻『こわれた腕環』

 テナーが永遠に生きるアルハとして神殿に育ち、生意気な巫女として君臨しようとしている前半は、あまり面白くない。

 白人のお姫様が異国の優秀な男性から救い出される。昔からある物語だ。でも、ゲドと脱出したはずの少女が、自由のなかで自分の責任で選択して生きていくことが怖くなって、ゲドを殺そうと、刃物を向ける場面が好きだ。そのとき、ゲドは何もしないのだ。

 このシーンは『帰還』でも、美しい朝に回想される。そこを読んだときは震えた。

 テナーがハブナーに着くラストも好きだ。テナーは、子どもに戻っている。誰でもない、自由そのものの子どもに。

 あるとき、テレビにアイルランドだったかのケルト時代の遺跡が映った。その遺跡は大きな円墳で、周りは白い石、ドーム状の頂部は緑の草に覆われていた気がする。アチュアンの墓所みたいだと思った。高さは、あまりなかった。穴が開いていて、冬至か夏至か、春分の日だったかに日光が差し込むのだった。アーキペラゴ(多島海)の地理的な位置を、たくさんの島が浮かぶカリブ海や、北アメリカに重ねると、一応、方角も合うが。


第3巻『さいはての島へ』

 ほとんど読んでいない。王子アレン(レバンネン)との「はてみ丸」での航海での風景が、あまりにもアメリカ社会の問題をそのまま投影しているようで盛り下がったからだ。

 …と酷評したけど、ローク島の学院の、噴水のある中庭のシーンはよかった。

 また、最後に竜が島(の砂浜?)で命を落とし、倒れるところも印象に残った。その後、山を太古の竜の遺骸だと思うようになったきっかけだ。

 ふりかえると、ずいぶん大事な作品ではないか。


第5巻『アースシーの風』  2003年3月発行

 タイトルから、前巻『帰還 ゲド戦記最後の書』の「キメイのばば」による、竜の歌


西の果てのそのまた西の

地の果てよりもまだその先で

わがはらからは踊っているよ

もひとつほかの風に乗って
の謎が明かされるのだろう、と期待で胸はいっぱいだった。今回は、それが巻頭歌になっているのだ。

 ところが、『帰還』のような強い印象は残らなかった。前作と大きくアースシーの世界は変わるし、『帰還』の船上で出会ったテハヌーには、この世界の王妃になってもらいたかったけど、内容は嫌ではなかった。読んでいるときも違和感はなかったのだけど…

 約1年後、「わたしはこの作品のよさに気づけていないのだろう」と再読。でもだめだった。

 シリーズ第1巻、ペチバリの息子アイオスをどうしても死なせたくなくて、石垣を越えて追っていくところから、くりかえし描かれてきた印象的なイメージの世界。それでありながら、このシリーズの成長に応じて、この作品で壊された死の世界観、死生観に、わたしはそれほど興味がないのかもしれない。祖母が亡くなって以来、カルガド人に似て、死後、命は分散し、ほかの生命や空気、光に生まれ変わるという考えをもっているから(ただし、信じているわけではない)

 よかった個所はあった。レバンネンは政治家としては今ひとつだけど、外交感覚が優れているとか、柳の枝先が川辺に垂れさがる館の描写とか。

(“The Other Wind” 2001)

初読2003年8月



 ユングの老賢者を思わせるゲドが、アジアの人のような容貌という設定や、巻ごとに大きく変わる作品世界、テーマは、作者の住むアメリカ社会への見方に起因していると思う。でもそうすると、『帰還』までは、北方の白人を思わせる「ゴハ」「テナー」が、たった一人異世界に落とされたお姫さまみたいに思えてつまらないのだが。

 今後はとうとうゲドの死や、その後のアースシーの世界が描かれるのかもしれない。レバンネンが統治する社会や政治のこと。それから、火焔と光輝に包まれた竜になって、西へ飛翔していったテハヌーと離すことのできない「自由」の問題。

 この現実の世界が変化していく限り、鋭敏な作者は反応して、この物語を書き続けるのではないだろうか。東洋の、アジアの島国に暮らすわたしは、わたしの問題と関わるところで読んでいきたい。