カブトムシと夜明け

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1951/nature/new.htmlを加筆修正しました。以下は加筆部分です。今後はそちらで書き直していく予定です。


 つぎに書くことははっきりは確認できなかったので、そのことを了承してほしい。

 カブトムシ(甲虫)の視界は白黒らしい。視覚自体の機能は弱いらしい。しかし、紫外線でものを見ることができる。そして、蜜のある花(樹液のことだろうか?)は紫外線を発し、白く見える。

 進化の過程で、カブトムシと植物、どちらが先にこんな方法を身につけたのだろうか?

 ・・・

 わたしはこの話を聞いて、カブトムシになりたくなった。行きたい美しい理想の世界、それだけが闇の中に浮き上がって白く輝いている。ほかのものは見えない。この世界のいやなものは闇に包まれて見えない。

 発光体を目指して、一直線に飛んでいけばいい。うらやましい。

 宮沢賢治の『よだかの星』で、夏の夜、よだかはカブトムシを食べ、喉でガサガサするそれを無理やり呑みこむ。

 あたりは、もううすくらくなっていました。夜だかは巣から飛び出しました。雲が意地悪く光って、低くたれています。夜だかはまるで雲とすれすれになって、音なく空を飛びまわりました。

 (略)

 もう雲は鼠色になり、向うの山には山焼けの火がまっ火です。

 (略)一疋甲虫が、夜だかの咽喉にはいって、ひどくもがきました。よだかはすぐそれを呑みこみましたが、その時何だかせなかがぞっとしたように思いました。

 雲はもうまっくろく、東の方だけ山焼けの火が赤くうつって、恐ろしいやうです。よだかはむねがつかえたように思いながら、又そらへのぼりました。

 また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。

 (ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)

 山焼けの火は、だんだん水のように流れてひろがり、雲も赤く燃えているようです。

宮沢賢治全集5』ちくま文庫より 但し現代仮名遣いに変えている

 

 わたしはこれまで、よだか(夜鷹)に捕食されるカブトムシを、よだかを苦しめる加害者のように感じていた。しかし、紫外線の話を聞いたら、加害者、害虫、侵犯者ではないのだと思った。

 ・・・

 紫外線と花のことは、チョウには確実に当てはまるそうだ。


 ところで夜だかは、自分が鷹に脅されて無惨に殺されそうになって、弱肉強食の世界が見え、下位の被捕食者の悲しさが身にしみて、感覚としてわかる。

 引用した部分では、まわりの風景も心に強く残る。空は雲に閉ざされた灰色、黒色の世界。下では、闇の中に真っ赤な火が燃えている。その山焼けは広がり、ついには雲に映り、全世界が火に包まれた苦しい世界に変わる。わたしは今回読んで、生き物の血が流れているようだと思った。それから、業火の世界か、とも思った。

 ともあれ夜だかは、黒と赤という色彩としても印象的で、その二色が不定期にゆれうごく、不安な感じの襲う劇的な画(え)のなかで、180度反対の決心というか、改心をするのである。「遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう」

 わたしが子どもの時なら、醜いからイジメられ、馬鹿にされるのはかわいそうだ、と憤ったかもしれない。「燐(りん)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃える」小さな星になったラストを、これでいいと満足したかもしれない。

 今は、そういう感想に賛成できない。

 神様がいるのなら、「わたしを殺してください」と訴えたくなったことがある。あとで、困窮きわまった弱者で被害者ぶってるけど、実は自分は欲張りだ、と思った。

 安らかな死を請うているのだから。

 「神様、わたしを殺してください」は、極楽往生を願うことと同じかもしれない。念仏「南無阿弥陀仏」は、「仏様、わたしをあなた様の手で殺してください」

 ふつうの人は無残に死んでいくけれど、仏様に死なしてもらえば、いい香りがただよい、快い楽の音が聞こえる。美しい雲に乗って、たくさんの観音菩薩とともに阿弥陀如来が迎えに来てくれる。痛くない、怖くない死。その後は、美しい世界で、この世(濁世、穢土)では無理だった浄い善い生活を送ることができるのだ。

 夜だかは、ぐるぐると地上と天界を行き来して、苦しい彷徨を大宇宙でしなければならなかった。しかし、最後には、「よだか」と名づけた「神さま」・・・自然界の摂理によって、永遠に輝く星にしてもらえる。聖者になったわけだ。

 わたしのような普通の人間は、悪人で罪人で、そんなふうにはなれない。『よだかの星』も『銀河鉄道の夜』も、賢治の、身を削るような絶望にして強い願望でありながら、弱々しい逃避願望に見えたりする。


 


 いまは立秋のまえで、午前3時半。

 机のむこうの窓は網戸。電気スタンドの明かりは、緑色の網戸までしか届かない。その先は闇になっている。闇の始まり。

 廊下とか階段とか、家の中にできた闇は怖いけれど、こういう自然の闇は怖くない。何が息づいているのか、そして、そこがどこかと風によってつながっていることが分かっているから。

 網戸からは、いくつかの虫の音と雨水の音が聞こえる。虫の音は何種類かある。その音を、たとえばカタカナでここに表すことは、わたしにはできない。涼やかで軽やかな音だ、とは言える。

 雨水の音は、ずいぶん前に降った夕立のしずくが葉から葉へ、あるいは地上の草にしたたる音だ。その音がやまない。これは「ジュ」という音がまじっているように聞こえる。

 わたしは雨がふったあとに葉をつたう「ジュ」の音が好きだ。草木や地が天から下った水のしずくを染み通らせて、すくすくと成長していくように思われるから。

 それから、「植物」より「草木」という言葉が好きだ。

 ・・・蝉が一声だけ鳴いた。明け方に合唱するヒグラシではないようだ。なんのために、こんな暗い夜に鳴いたのだろう。

 それをいうなら、わたしこそ何でいま起きているのだろう?

 振り返ると、本を読んでいたのだった。お風呂から出てきた気持ちのよさに、髪を乾かしもしないまま、ベッドに寝っ転がったり、起きあがったりしながら、読み続けていた。

 そこには自然のこと、庭のことが書かれていた。すばらしかった。でも、登場人物たちの成長物語であることが判明したら、興味が半減した。成長しなくてもいいじゃないか、などと不遜な考えが湧いた。

 そして、庭と自然があって、その暮らしから何が生まれるか、ううん、良いものが生まれることを書きたくなった。

 じゃあ、その良いものとは何だろう?

 ・・・そうなると、途端に答えられなくなる。つかみ所すら、感じられない。

 時間が経って、思った。

 いま抱いている幸福感のことなのだと。

 いまの状態に充足していて、同時に、このように過ごせば、これから先も良いことがありそうだ、といううれしい予感。