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火とサルスベリ

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1951/nature/new.htmlからの転載です。今後はそちらで書き直していく予定です。


 国語の教科書にも載っている絵仏師良秀の話に引きつけられた。こんな話だ。


 「絵仏師良秀の家を焼くるを見て悦ぶこと」というタイトル。

 隣家から火事が起こる。自分の家には注文された絵もあり、衣類を着ていない妻子もいるのに、良秀は燃える家を見つめていた。人々がお見舞いに来ると、「うちうなづきて、時々笑いけり。」 そして言う。

「ああこれは儲け物(せうとく)だ。今までは悪く描いていたんだなあ」

訪問者たちが「こはいかに、かくては立ち給えるぞ。あさましき事かな。物の憑き給えるか」

と驚くと、

「「なんでふ物の憑くべきぞ。としごろ、不動尊の火焔を悪しく書きけるなり。今見れば、かうこそ燃えけれと、心得つるなり。これこそ」儲け物だ。この道を立てて、世を渡るのには、仏さえうまく描けば、百も千も家を建てられるだろう。あなたがたは、「させる能」もお持ちにならないから、物をも惜しみなさるのだ」

と言って、「あざ笑いてこそ立てりけれ。その後にや、良秀がよじり不動とて、今に人々愛で合えり。」

(日本古典文学全集『宇治拾遺物語』巻3 第6話より。但しところどころ表記・表現を変えている)

 家族も財産も気にせず、ひたすら火を眺め、画道に活かした良秀。燃えている家を見ていたときの「笑い」は、喜びの笑いだ。訪問者に対するそれは嘲笑。こみ上げてくる喜びを押さえる常識をもたず、異様だし、人々に皮肉な言葉を返すところには、彼の狷介さがあらわれている。いやな人間ではある。

 しかし彼にすれば、慌てて騒ぎ、火を恐れ、良秀をかわいそうがる周りの人間こそ、無能で無知なゆえに哀れな存在なのだ。この話には、芸術に憑かれた鬼の姿が描き出されている。

 わたしは良秀に共感をおぼえる。火は人も家も滅ぼす恐ろしいものだけれど、わたしが出会う大きなそれは、おもに畑を焼く火や、どんど焼き(道祖神)の火で、美しいから。なんで火が好きか、ということは、こちらに書いたことがある。

 上の話では、火の姿を会得することでお金儲けができることを中心に据えているようだけど、良秀は本物のよさを学んで、すばらしい絵が出来ることを喜んでいたし、たぶん、変化自在の火の動きに魅了されていたろう。その喜びはわかる気がする。

 こんな人間を冷酷で、非常識だと嫌悪することはいくらでもできる。第二次世界大戦後、罪の意識から(と聞いた)、岩手県花巻市の山にひきこもった高村光太郎(詩人、彫刻家)もこんなことを言ったという。
 


あなたは、軒の下を走る煙と火とを目でしっかり見たか。僕は軍記物語の絵巻を見るとき、あの軒下を這う煙が気になっていたが、今度の空襲で焼かれた家の軒下を走る煙と火とが、あの絵巻とそっくりなのに気がついたよ。実に言いようのない美しさを持っているものだね

家も「本の一切」も失った話を聞いた後に、こういうことを喋ったのだ。聞かされた相手の加藤楸邨(俳人)は、「焼夷弾と火災の火や煙に取り巻かれた」自分と家族が避難した時のことを思い出す。そのときに目にした風景を描いた俳句「火の奥に牡丹崩るるさまを見つ」について

「私にも飛花落葉の散り乱るるさなか、流れ動きゆくものの動きを見てとることのできる目がいささかできていたのだろうかと、よろこびかかなしみかはっきりしないが、何かものを創り出す者の興奮のようなものを感じた」

と書く。

 光太郎を否定しないのだ。このように、恐ろしい場面における火を美しいと思ってしまう「良秀」はたくさんいるのだろう。

 もちろん、火だけの話ではなく。



 トウモロコシをもらった。とりたてのトウモロコシだ。実を包んでいる白っぽい緑色の皮が、しめっていて柔らかい。

 家のレンジで温めた。甘くて美味しかった。

 近年のトウモロコシは、とても甘いと思う。

 昔は、家の畑でも家用にすこし作っていた。しかし、伸びて大きくなり、実がなると、カラスにやられてしまうのであった。カラスはよく見ているらしい。




 
 お祭りの日、古典のことを夢中になって書いていた。きっと、昔の人にとってお祭りは心が浮き立つもので、喜んで出かけたのだろう。

 わたしは、道路がコンクリートの用水路と化した、とか、地名をあらわしてきた自然が無くなりつつある、なんてことを憤り、嘆いている。しかし、地域に根ざしたお祭りを衰退させ、滅ぼしつつあるのだ(?)


 サルスベリ(百日紅)の樹下があいていたので座った。丈の低いサルスベリであった。色はピンク色。

 近くで見て初めて、この花が繊細な付き方をしているのを知った。遠くから見ていた美しい色は、つきでた茎の先の花びら一枚一枚なのだった。

 手を伸ばして枝を揺すると、花びらが落ちてきた。きれい。集めてバッグに入れた。

 帰り、今年も墓地にサルスベリが咲いているのを見た。が、ちょっと驚いた。全体に花が付いているのだ。暑さが花をたくさん咲かせ、木を美しくするのだろうか。