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わたしの落窪物語

以下はhttp://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1951/books/TheBlueCastle.htmlからの転載です。今後はそちらで書き直す予定です。


『青い城』 L・M・モンゴメリ  谷口由美子訳



 小学校高学年のとき初めて読んで、パチパチと薪のはぜる、暖かくて居心地のいい家と、そこで物語を読みふける自由な生活に憧れた。そのころは作者の名前を覚えたりしなかった。

 10代の後半になって、図書館で偶然見つけた。青い色調で大判の本のことは、忘れられなかったのだ。さっそくページをめくった。そして、心臓が飛び上がるほど、ドキンとした。

 主人公のヴァランシー・スターリングは、《青い城》での恋愛を空想しつづけていたが、自分も、空想を編み上げてはほどいていたからだ。ヴァランシーはそれを《記憶のある限り昔から》行なっていた。わたしは小学校から歩いて帰る途中に生まれ、異様なねじれや、どす黒い部分が含まれていた。中学生になると、数学の授業といった、いやなときにも取り出して遊ぶようになった。

 人に明かせないものであった。空想や想像と呼ばれる存在だとも意識していなかった。

 それを、親近感を持って再読した『青い城』によって、初めて指摘された。ショックに心が震えた。


 読みすすめると、覚えていたのは冒頭に記したことだけだった。

 ヴァランシーが家族や親族に抑圧されていたことも、機知によって彼らを撃退していく痛快な前半も、シシイ(セシリア・ゲイ)を看病する仕事を得て家を出た(つまり経済的に自立できた)ことも、シシイの哀しい人生も、実はバーニイが本(自然を題材にしたエッセイ?)を出版して、高く評価されているという設定も、加えて、大富豪の一人息子だったという大甘なハッピー・エンドも、自然のゆたかな舞台のことも、まったく忘れていた。

 ほんとうは全てを読んでなんか、いなかったのかも知れない。あるいは、自分がヴァランシーのように劣った女性だとも思わず、愛し愛される夢も抱かないほど、成熟していなかったからかもしれない。


 作者モンゴメリのデビュー作『赤毛のアン』は傑作であり、後世まで残るが、『青い城』はそうはならないだろう。通俗的で都合がよすぎる。甘く、浅い。

 たとえば、すべて恋愛にまつわるヴァランシーの空想は、ロマンチックで単純明快だ。それは、生(ナマ)の採話ではなく、配慮をもって子ども向けに語り直されたお伽話・童話、メルヘンに似ている。本物は、もっと、血肉がまじり、力がこもり、悪意・怨念にも突き動かされ、さまざまな色の輝きと陰影に縁どられたものだ。

 洞察力にすぐれていたモンゴメリは勿論こんなこと、自分がまざまざと体験してきたものとして知っていただろう。松本侑子さんは、彼女は社会道徳に反しない小説を書き続けて疲れきり、斃(たお)れたという(「訳者あとがき」『赤毛のアン』集英社 1993年4月発行)。

 モンゴメリはアン・シリーズとは関係ない『青い城』を好きだったらしい。とはいえ、空想の部分は、世間体を気にしてオブラートに包み、無難でかわいいものに仕立て上げてしまっている。

 結末ではシシイが忘れ去られている。彼女はヴァランシーを聖女にするため、あるいは家から解き放つための踏み台だったのか?

 だいたい、相思相愛となったのに妊娠した女性が捨てられる、というよくある話に、たとえヴァランシーのとなりのバーニイが完璧に理想的な人物だとしても、すこしは切実な何かを感じるものではないのか? 超現実的な幸福物語のすぐそばで、現実的な恐い話が語られているのに。

 『青い城』は『赤毛のアン』に比べてリアリティが薄く、自然豊かな場所なのに、『赤毛のアン』の美点だった、すばらしい自然描写も減っている。その表現には相変わらず色彩をもちいてはいるものの、想像力を活性化させる華麗さに乏しい。マスコウカ地方の四季を描いている記述は、たいてい読み飛ばしてしまう。

 地の文での自然描写の少なさは、ジョン・フォスターの文章を目立たせるためかも知れない。ところが、モンゴメリが練り上げ、作中では世界的に(といっても欧米で)高く評価されているというフォスター氏の数々の“名文”は味わいが薄く、あまり感銘を受けないのだ。

 と、悪口を並べたてたけれど、わたしは再会後、魅了されたのだった。繰り返し読んだ。まずはヒロインが自分と同じく、ある空想を抱えているという設定に打たれたからだ。

 が、いちばんはヒロインが本も自然も好きなところ、自然のなかで自由な生活を満喫するところに惹かれてやまなかった。うじうじとした人間にとっては、ある種の理想的なラブ・ストーリーでもあったし。

 しかし、小説として読むのには、ごみごみとして醜い町を舞台にした、結婚を告げるまでのヴァランシー V.S. 保守的で退屈、無理解な周囲との人間くさい対決のほうが、遥かにおもしろい。実際に何度も読んだのはその部分、本の最初から2/3くらいである。

 それ以外の部分、『青い城』の気分、核のようなものは、心のなかで数え切れないほど愛撫し、ころがした。口のなかに放りこんだアメのように。

 ゆくゆくは歴史のなかにまぎれ、消えてしまうだろうこの作品も、脚本としてならどうだろう? というか、余命わずかと知り、“本当に生きたい”と一転、行動的になる設定なんて、映画などによくあるパターン、定番ではないか。モンゴメリが本としての世評のほかに、映像化、シナリオとしての採用も頭に入れて上梓した、という可能性はないのだろうか。

 ユーモアが基調となった人間描写。最後のベンジャミンおじは頼もしい。初めはイヤ〜な人々が愛おしくなる大団円。それから、背景が気持ちのすっきりとする美しい自然であること。

 それらと連動して全編、女性の夢に満ち満ちていること。美しくなる夢、魅力的になる夢。(狭い界隈一の美人でもない。若くもない。しかし、世界的な大画家(現代だったら、写真家?)にモデルを申し込まれるのだ!)。そして、もちろん理想的な男性と幸福な日々を過す夢。


 下世話な夢、物質的な夢、願望成就もたんと詰めこまれている。

 世界旅行(シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』を思い出した)。

 お金に不自由せず、働かなくていい。

 都会に遊び、郊外でのんびりと暮らす。

 オリーブのような、太刀打ちできないほど、そばで輝いていた人がちょっと不幸になる。(イヒヒ)。

 将来は理想的な家族ができる予感。

 係累や人間関係に煩わされない人生。

 都市の宝飾店や秘境の市場で、きれいな服やアクセサリーをたくさん買いこむ。

 湖の小島では《不揃いな、欠けた皿》で充足していたって、ウェッジウッドのすてきなセットを入手するだろう(第4章で、新婚家庭のそれを羨ましがったのだし)。

 ・・・挙げていったらキリがない。ヴァランシーはかつて《ある娘には何もかもが与えられるというのに、何ももらえない娘もいるなんて――まったく、不公平だ》(傍点省略) と憤った。しかし、結末を快く読むわたしは、そのような不平等の是正など求めなくなっている。オリーブの苛立ちにニヤリとしてしまうのだから。

 長大な作品ではない『青い城』は、精神の幸福と、物理的な欲望の実現(予見を含む)に、はちきれんばかりだ。田辺聖子さんの『舞え舞え蝸牛 新・落窪物語』や『かたりべ草子二 田辺聖子が語る「落窪物語」』では、恋人の貴族が通ってくる。“王子さま”とお姫さまが食事に夢中になるシーンはないけど、調度や着物など、物のことは細かく描かれる。

 自動車を飛ばして映画館に行き、《外へ出て中華料理店へ入り、鶏の唐揚げを食べた――信じられないほどおいしかった》『青い城』は、現代 ×(かける) 欧米版『落窪物語』だ。

 アン・シャーリーは、たくさんの人に愛されている。小説の外の世界でもだ。

 ヴァランシーは対照的だ。小説の最初、29歳なのに、親しい人もいない。周囲には才能も心根も認められず、軽んじられている。行動的になり、バラ色の未来を手にした“勝者”となったラストでも、ヴァランシーには、ひっそりとした印象がある。アンのように、多くの人に熱烈に記憶されるとは、わたしには思えない。

 この軽いロマンチック・シンデレラ・ストーリー(まさにシンデレラ(灰かぶり)のように、ヴァランシーは家庭で酷い扱いを受けていた。そして、運命を変えてくれる現代の魔法使いは、病気、余命わずかな病気の突然の宣告である)が人口に膾炙したとしても。

 しかし、どう悪口を連ねようと、わたしは好きなのである。

 名高い『赤毛のアン』は、アンの髪の毛のように風になびいて、陽光に明るく輝いている。ほとんど無名の『青い城』は、ヴァランシーの服や、湖や森のように月の光射す、青白くけぶる空気のこもった静かな世界だ。『赤毛のアン』を好きだとは広言できるけれど、『青い城』への耽溺は黙っていたい。

 長い間そんな気持ちだった。致命的な欠点に気づきながらも、ひっそりと大切にしていたい1冊だったのだ。ひとり胸の内に抱え、愛していたかったのは、むしろヴァランシーの憧れと夢、『青い城』の本質的なものに共鳴する心だったろう。



 その後、わたしは読まなくなったし、字面よりも惹かれていた夢からすら離れるようになった。そのうちは忘れていくかもしれない。

 もし読み返すことがあるとしても、ジェイン・オースティン(ジェーン・オースチン)の孫娘としてのモンゴメリが書いたような、『青い城』の前半と末尾、ヒロインが“愚かな”親族たちと織りなすコメディーの部分だろう。あの群像劇には、小説としての本当の価値が宿っている。

“The Blue Castle” Lucy Maud Montgomery(1926)

篠崎書林、1983年11月初版発行


関連  http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1951/books/Anne.htmlほんの感想 『赤毛のアン』松本侑子・訳