魅せられても

以下はhttp://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/1951/movies/5.htmlにもあります。今後はそちらで修正していくつもりです。


 「それビデオなんでしょ。とめてお風呂に入りな」

 ビデオは録らないし、買わないし、レンタルしない。DVDはない。

 一時停止も巻戻も不可能、いうなればリアルタイムでどんどん流れ去っていくテレビだからこそ、恋着を深めてくれるのかもしれない。



 タイトルは村の名前であった。

 この映画は、映像が美しい。まず、しょっちゅう登場する森が怖い(にも関わらず、主人公はよく入る)。枝先に葉はなく、みょうにねじ曲がっている黒い木々。

 主人公に従う少年の「鳥の声も虫の音も聞こえない」というせりふにゾーッとする。たしかに、そういう時の自然が怖いのだ。

 “本当の主役”が現れる前になると、風が吹き、白い霧のなか、積もった落ち葉が舞う。『千と千尋の神隠し』、千尋が両親に付いて建物に入る時みたい。

 怖い映像が美しい、というのは変かもしれない。黒、青、灰色。落ち着いたトーンの絶妙な色彩。それに加えて、恐怖心を掻き立てる細部。目を離させない映像が美しい、ということかもしれない。
 こんな説明はなしに美しかったのは、主人公の母親が緑濃い庭園で舞うシーン。青いドレスを着た母親は空中に上がっていく。

 この場面で最も忘れられないのは、母親を上から撮った映像だ。細い体から盛り上がった白い胸。人間の体のかたちの奇妙さも感じた。

 地主の娘の美しさも忘れがたい。そしてやはり、ふくよかな胸が妙にのぞく服装なのが気になった。

 映像はちょっと、『スノー・ホワイト 白雪姫』を思い起こさせた。同じ監督なのかな、と思った。

 それから、曇った戸外、白い霧、嵐が訪れそうな、雲に満ちた空、きらめく稲光り、野、石造りの炉辺、炎、丘の風車、点々と立つ石の墓碑、並べられ開けられた棺桶。おおいに、エミリー・ブロンテの小説『嵐が丘』を想起させられた。ほかにそういう映画は『レジェンド・オブ・フォール 果てしなき想い』がある。

 『レジェンド・オブ・フォール』のおもな舞台は、荒野と田舎の町。凄絶な美人が、文化・知性を体現しているような優男と、野生や個人の感性を体現しているような二人の男性の間で揺れ動く。後者が帰郷した時、スザンナは富裕な家の前者アルフレッド(アイダン・クイン)と結婚している。美人(ジュリア・オーモンド)は自死を選ぶ。いつもながら、たまたまテレビで見て、『嵐が丘』ってこういう感じかも、と思った。(ちなみに、後者のトリスタン(ブラッド・ピット)が馬を駆って、現れるシーンはかっこいい。スザンナの墓で泣くアイダン・クインもいい。しかし、トリスタンがクマに襲われるラストの映像には仰天し、興ざめした)

 対してこの映画は、風景が『嵐が丘』を想起させたのだった。そして、後でこの映画のレビューをネットで読んで思い知らされた。今まで、『嵐が丘』を傑作だと思っていた。たしかに普遍的な世界を鮮やかに映し出している傑作だ。でも、明らかにゴシック・ホラーの分野でもあるのだと。
 (あとで気づいたのだが、この映画も『嵐が丘』もほぼ同じ年代を描いている。エミリーが今生きていたら、この映画をどう思ったろう。あるいは、どんな映画を作っただろう。)

 一家が襲われ、殺された母親の目と、床下に隠された幼い子どもの目が合うところは『キル・ビル』の、   が作ったアニメのシーンみたいだと思った。

 拷問の映像は、あの道具に「やはり出たな」とは思うけど、やはり気持ち悪かった。

 “死者の木”は、その形だけでは怖くない。わたしの近所の川辺にある木のほうが、仰々しい枝ぶりではないのに怖いから。

 本当に木の根から飛び出してくるのには仰天。しばし混乱した。森の岩屋に住む魔女の顔(目からヘビ?が出てくる)は、作り物だと思っていたし。

 重い人間関係を背景にしたシリアスな謎解き(ミステリー)だと思っていた。

 最初は、コントラストが過剰なことが気になった。たとえば、暗く沈んだ雰囲気の集落。主人公が通りを行くと、家々の窓が閉じられる。でも、一軒の建物のドアを開けたとたんに、明るくにぎやかな、人に満ちた場が現れる。

 あるいは、一様に無言で彫像のような、村の長老たち。静と動もはっきりしている。

 見ているうち、こんな仰々しくなく、何気ない日常の風景を映しつづける、落ち着いた映画を見たくなった。

 しかし、仰々しさが気にならなくなるくらい、話に引きこまれていった。『仮面の男』(レオナルド・ディカプリオ)もそうだったが、「アッ、鍵をにぎる人物(犯人)だ」と思う瞬間がある。でも、その印象はエピソードが重ねられるにつれ、しだいに覆され、消える。そして最後に、その人物が確かにそうであったと告げられる。

 (ちなみに、『仮面の男』三銃士とダルタニアンがいい。とくにアラミス(ジェレミー・アイアンズ)。ディカプリオは傲慢な王子と繊細な王子を演じ切れていない、なんにも演じていない、と思った。)

 今回、見終わって、自分のだまされやすさを実感した。というか、お話を見る歓び、読む歓び、聞く歓びは、だまされる楽しさにこそ、あるのではないだろうか。自分で真実を発見し、自慢もしたいけど、実は、読み物に呑みこまれ、だまされたがってもいる。だまされることを欲しているのではないか。

 ともあれ、目が離せない映画だった。トイレに行きたい時はCMを待った。CMの間にリモコンを押したが−−お笑い番組、ドラマ、ニュース−−、必ずテレビ東京に戻ったのだから。

 ところが見終わってみると、……

 主人公がガタガタと震えて、脅えるのは狂言ではなく、本物の恐怖心だったなんて。結局、都会からやって来た青年、『嵐が丘』での粋がった凡人ロック・ウッドか。ただし、「この世には、こんなことがあるんだ…」と知り、去っていく傍観者。

 この映画自体は、「実際にこんなことが起こるかもしれない…」とまで観客に思わせることには失敗している。映画の中で閉じている。街でも怖い現象が起こりそう、というオチにすればよかったのに。『となりのトトロ』とは違う。

 石畳の街路にも首無しの騎士の姿が…なんてしたら、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』と似てしまうか。

 『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』の吸血鬼少女クローディア(キルスティン・ダンスト、当時12才?)もすごくよかった。吸血鬼レスタト(トム・クルーズ)に美少年を用意し、毒を盛って苦しめて殺す場面。彼女が井戸の中で死んでからは、つまらなかった。今回の映画の地主の娘といい、わたしはロリータ美少女が好きなのかもしれない。『レオン』は最初でやめてしまったが。

 (トム・クルーズといえば、たまたまテレビを付けたら放映されていた『レジェンド 光と闇の伝説』。印象に残らない王子だし、小人たち以外はしょぼい映画だった。スターも最初は大変なようだ。)

 シリアスな時代劇だと思っていたから見続けたのかも。一家惨殺。立ち向かうブロウの殺害。そして何より、自然現象の前ぶれとともに、しょちゅう現れる首無しの騎士。これなんか、シリアスさを装った、いまいち感の最高放出に思える。

 見ている時に一番おかしかったのは、最後のシーンでの少年。彼が地主の娘に恋していたかは判らないし、してなくてもいいけど、富裕で美しい令嬢を手に入れたのは主人公。彼はこれからもきっとエリートの階層なのだろう。少年はたくさんの荷物を持たされ、一転して従者のよう。彼ら3人はニューヨーク(ただし、全体が灰色で摩天楼(超高層ビル群)もない。1799年だそうだし)の雑踏にまぎれていく。今こちらから送りたい言葉は「書き割りの中にさようなら」。

 悪口は続く。しかも、ここがメインのつもりである。

 この映画のいちばん気に入らないところは、魔女の描き方。魔女の描き方。

 美しい女性が魔女とされる。しかし、実際には村のはずれに暮らしている、身よりのない、未婚の高齢女性が多かったらしい。このことは、大学の西洋史の授業で聞いて、忘れられない。以下はわたしの想像である。

 共同体の周縁で細々と暮らし、係累もないから、共同体のイベントや人間とはほとんど関わらない。そういう生活を貫くくらいだから、もしかしたら、愛想がなく、性格も頑固だったり、癖があるのかもしれない。彼女は共同体には関心がないのかもしれない。しかし、共同体内の人間には、気になる、怪しい人物だ。なにか事件が起こるたびに、関連が取りざたされる。共同体とは異なる生活習慣や、あるいは趣味が、その証拠とされる。共同体の子どもが「化け物の家」などとうわさする。それが数十年続く。地方全体で、そのような女性が魔女だという風説が流布する。

 もちろんこれは、大学の授業のことを忘れたわたしの想像だ。実際にはこの映画のように、共同体に入れてもらえなかった恨みを持つ者もいたかもしれない。物質的に豊かで、文化的で、家族・友人に囲まれた楽しく華やかな生活。しかし、利欲に生きている人間たちとのわずらわしい関係から離れ、自然のなかでの一人で暮らしていく良さを感じることもあったのではないか。『千と千尋の神隠し』の銭婆(ぜにーば)のように。

 疎外的な共同体や、過ぎ去った若い時代にあった可能性への未練、恨みは、無意識にとどまっている事もあったのではないか。

 ・・・と、わたしは“魔女”の肩を持つので、この映画に引っかかった。それから最近、「負け犬」という言葉が話題だけど、かつての魔女のような「死に犬」ではなくてよかった、と思っている。


 「トリックスター的探偵を主人公とするハードボイルド小説の構図は、ほとんど必然的に、この主人公の融通無碍な狡知の才に見合い対峙するに足るだけの奸策の持ち主を随所に配慮する。とりわけ、美しい微笑の陰に冷徹な意志と狡猾きわまりない企みを秘めて、社会の階梯をのし上がってゆく裏返しのシンデレラを。」(山路龍天「この世の王国」 所収『物語の迷宮 ミステリーの詩学』)

 この映画の主人公の捜査官はともかく、犯人のほうはこの文章に重なる。彼女は、美貌と肉体を投げ与えて、成り上がってきた悪女。謎を追い求めてきた探偵的青年が対峙するのが、そのような人間であったのは、この文章にあるように、ありきたりなのだ。

 でも、魔女なのがいやだ。娼婦っぽい魔女。

 魔女と売春は、結びつくものらしい。それを描きながら、差別される魔女の価値を書き直しているのがアーシュラ・K・ル=グウィンゲド戦記第4巻『帰還』だ。わたしは、フェミニズムが取り入れられているファンタジーと知って、1巻『影との戦い』を読んだ。すばらしい作品だった。しかし、魔女は無知で汚れて低俗な存在のように描かれていた。成り上がる魔女が出てきた。それが4巻になると、変わる。

 この映画は、通俗的な魔女の姿をなぞっているだけだ。魔女が共同体に入ってくると危ない、という警告でもある。この映画は、狭い女性観の表出に思える。魔女と対照的に、地主の娘は、天使のような聖女のような女性だ。白い服装や馬が目に残っている。そんな天使的聖女が“正しい”結婚にたどり着き、財産も手に入れる。極計に処せられる年取った魔女と、なお与えられる若い聖女。
 もっと、ものの見方を新しくしてくれるような作品がいい。

 犯人のねらいが寒村の家の財産、というのがちょっと迫力がなかった。魔女がそんな遺産目当てにあんなこともしなくても、と拍子抜けした。

 遺産目当てにするのなら、村における家、というものをもっと描けばよかった。家が最重要で、人生が家と結びつき、家しかない世界。血統というものが大切にされる世界を。

 なお、首無しの騎士が、自分の黒い馬デアデビルに愛情をみせるところがよかった。雪原で馬が撃たれ、別れる時に撫でるところ。馬も、墓にやってくる。それから、ラストでも馬は駆けてくる。

 首無しの騎士が、自分の首を胴体に載せるところは、近藤よう子さんのまんが『美しの首』(いつくしのくび)を思い出した。映画は、しゃれこうべから生の人頭に甦るところにCGで(?)力をかけていた。でも、黒い簡潔な線の『美しの首』のほうがなぜか、迫力があった。

 というふうに、入場料を払わずに、ぞんぶんに楽しんだくせに、メチャクチャにけなしたのであった。

 翌日はもっと楽しみにしていた『ハリー・ポッターと賢者の石』。ハーマイオニー・グレンジャー(エマ・ワトソン)がかわいい。黒い三頭犬フラッフィーとか、館内を浮遊している貴族の幽霊たち(「ほとんど首無しニック」ことニコラス卿 )などのキャラクターが魅力的。

 でも上の映画よりつまらなかった。原作を読んだ時、主人公が努力しなくてもすべて(能力、名誉、友人、お菓子)を与えられるのがいやだった。樋口一葉が書いているように「我身に定まりたる分際を知らば為らぬ浮世に思う事あるまじく、甲斐なき悶(もだえ)に腸(はらわた)にゆべしやは」(『やみ夜』)。「我身に定まりたる分際を知ら」ないから、苦しむのが人間なのではないだろうか。あるいは、『にごりえ』のお力のように「持たれたら嬉しいか、添うたら本望か、それが私は分かりませぬ」。どう生きていいか、わからない。わたしが気が利かないのも、「××病」などと診断されたら、生き方が規定されて、どんなに楽なことだろう。ハリーには、そんな苦しみがない。

 しかし、それはもういい。わたしはただただ、この世の歓びをぞんぶんに振り掛けられた児童文学、“寄宿学校物語”の映画化を楽しみたかった。制限するような家族も立場もなく、食べ物も、胸躍る冒険も、どしどしやって来るのだから。ところが、映画は人間の表情がとぼしいし、映像には退屈なところがあった。しょっちゅう、チャンネルをまわしたのだった。

 羽の付いたたくさんの鍵が、ホウキに乗ったハリーを追い、扉に遮られるところは、『千と千尋の神隠し』で、白竜のハクが人形(ひとがた)の紙に追われるところを思い出した。

 たくさんの言葉をつらねて、悪口を書く映画の方が、わたしにとっては価値があるようだ。


アメリカ、1999年

撮影 エマニュエル・ルベスキ

美術 リック・ヘインリックス

衣装(デザイン)コリーン・エイトウッド

監督 ティム・バートン

○お間抜けな捜査官 ジョニー・デップ

○くどい衣装のミランダ・リチャードソン Miranda Richardson

(『スノーホワイト』の魔女であった。アジア系っぽいヒロイン(クリスティン・クリューク)が美しかった。鏡のシーンがすばらしかった。継母が「世界で美しいのは誰?」と聞くと、「わたしよ、わたしよ」と、周囲の鏡から白雪姫が手を伸ばしてでてくるところ。監督はキャロライン・トンプソン、ムアが美しかった『秘密の花園』(1993)の脚本担当でもある)

○地主の娘カトリーナ  クリスティーナ・リッチ Christina Ricci

スリーピー・ホロウ Sleepy Hollow