イタリア旅行記3



シエナ



 この旅行で出会った街では、フィレンツェが飛びぬけて美しかった。朝、遠ざかっていくオレンジ色の街を見るのは悲しかった。

 しかし、つぎのシエナもとても楽しみなのだった。そして、旅行をふりかえると、シエナに寄るツアーになってよかった、としみじみ思うのである。

 この日は曇りだった。この時だったろうか、直線道路でバスがパトカーに止められたのは。スピード違反で捕まったのだった。待っている間、窓の外に咲くピンク色のアーモンドの花を描いている人がいた。バスは出発し、ツアーの人々は1ユーロずつ提供した。運転手さんは喜んでいた。今ふりかえると、こんなことでよかったのかなあ。

 山あいの高速道路を行った気がする。憧れの街は頑丈そうな城壁に囲まれていた。バスは城壁の外の駐車場に止まった。そこのバスの駐車代はけっこう高いらしい。

 ドゥオーモ

 緑色の縞模様が印象的だった。

 天井から、歴代の教皇の顔が見下ろしていた。銀行にもダンテなどの首がついていた気がする。像が仏壇などの中にある生活をしているからか、怖くも感じる。日本の道ばたや墓地にも、お地蔵様がいるけれど、切れ長の目はふしめがちだ。

 ドゥオーモは、やはり床のモザイクはすばらしかった、のだと思う。賛嘆したような気もするが覚えていないのだ…

 出る時、パイプオルガンの演奏が流れた。練習かもしれない。深い美しい音色だった。もっと聞いていたかった。

 図書館や礼拝堂などは見なかったと思う。

 カンポ広場

 シエナの思い出のひとつは、カンポ広場。気持ちの良さにびっくりした。イタリアに来て、広場とは、人が行き交う、あるいは集まっている通路のようなものだと思うようになっていた。

 居心地がよくて、憩うことのできる広場、というのがあるのだ。世界一美しい広場と形容されているが、「美しい」とは「安らげる」と同義ではないかと、歩きながら思った。

 広場は赤くて、貝殻型。斜面に若い欧米人たちが座っていた。

 まわりは建物に囲まれていた。狭い路地や、トンネルのような建物をくぐって、この広場に至るのだ。パリオで競馬が行われるのには小さい気がした。

 日本に帰ったころ、群馬県立近代美術館シエナ派(?)の絵画展をやっていた。カンポ広場の絵もたくさんあった。りっぱな服を着た昔の人々で埋まり、セレモニーが行われている歴史的な広場。自分があそこにいたことはウソみたいな気がした。

 騎馬像

 思いがけず自由時間ができた。すぐにカンポ広場下のプッブリコ宮殿へ。時間が惜しくて走っていったと思う。かねてから、とても行きたかったのだ。

 お金を払い、階段を上り、部屋を進んだ。窓がわの部屋に入ると、右手にシモーネ・マルティーニの騎馬像「グイドリッチォ・ダ・フォリアーノ将軍の騎馬像」があった。シエナの思い出のふたつ目だ。絵は、天井と接する高いところにあった。予想よりも大きかった。

 この絵の思い出は、うれしかったことに尽きる。

 画集以上のすばらしさであった。わたしが見た中では、ほかにない空間の感じがする絵だった。なぜか日本の水墨画山水画の巻物を連想させられた。

 そして、あの青色の広い面は、今も目に残っている。


 おなじ部屋(世界地図の間)の群像の絵にもびっくり。それは騎馬像を見ていると、右側の壁の上にあった。赤や白で人と馬の集団が描かれていた気がする。迫力に圧倒された。

 騎馬像の向かいには(部屋に入って左側)、マルティーニの有名な『マエスタ』。しかし、騎馬像の方が魅力的だった。

 縦長の聖女像(それは『マエスタ』を見ていると、左側にあった)はよかった。


 となりの部屋(平和の間)の、アンブロジオ・ロレンツェッティの『善政の効能』『悪政の弊害』。これも、騎馬像とならんでぜひ見たい絵だった。しかし、剥落してよく見えなかったからか、よくなかった。画集だと、街の様子、人の様子、それから閻魔大王みたいな黒い悪魔(?)なんかが魅力的なのに。

 騎馬像が表紙になったノートを、フィレンツェのお店で買っていた。この市立博物館にはそれは無くて、ポストカードを購入。

 カンポ広場に面したレストランで昼食。ここも高いのかもしれない。

 緑の草地(牧草地?)の間などをバスは走った。特徴的な杉が並木に植えられている建物が丘に見えた。ヴィラ(別荘)、という感じ。





ペルージャ



 夕方、到着。ホテルから歩いて、エレベーターに乗り、気がつくと、暗い洞窟のようなところを歩いていた。かつて、教皇に埋められた場所らしい。すごいことをしたもんだ。

 ガイドさんに連れられてめぐると、ペルージャの街は迷路みたいだった。白っぽい石造りの建物のあいだを、曲がりくねった小路がめぐり、アーチやトンネルみたいなところがあった。映画に出てくる街のようだ。

 添乗員さんがいちばん好きだというエトルリア門。堂々として、たいへんな迫力だ。紀元前のエトルリア人の建造技術に感嘆。

 丘の先端の広場にあるペルジーノ像もよかった。絵の道具を持ち、絵の大好きなおじいさんという感じだった。

 またも自由時間ができた。ガイドブックをめくると、ドゥオーモには、ウフィッツィ美術館で、たしかな裸体画に魅了されたルカ・シニョレッリの絵が、また、近くの国立ウンブリア美術館には、ピエロ・デッラ・フランチェスカの絵があるではないか! なんという幸運。

 ドゥオーモ

 お金を払って、階段を降りていった。お客さんも係員もいなかった。地下みたいな所だった。石の遺跡もあったかもしれない。それに薄暗い。でも、こわくない。シニョレッリの絵があるんだから。

 ところが、見つけたこれが堅く暗い、そして流血している磔刑図なのであった(グリューネヴァルトのイーゼンハイムの祭壇画(フランス)とは違う)。小さいけれども、怖い。

 まわりも、そんな中世っぽい宗教画ばかりが掛けられていた。やさしく柔らかい、人間的なラファエロみたいなのはない。そして相変わらず、誰も来ない。

 出よう。しかし、博物館は大きな一つの部屋ではなく、順路はくねくねしている。早足になって移動。そして無事、見慣れたイタリア語「uscita」の札に到着。出口。

 安心と達成感のあまり、そばの記名帖に喜んでサインした気がする。イタリアでの記名は初めてだった。

 さあ、出るぞ。…ところが、大きなドアは鍵がかかっているらしく、開かないのであった。ひどい! ルール違反だ!  しかも、両開きの木製(だと思う)のドアには隙間があって、外が覗ける。そこはドゥオーモの側面で、通りを人が行き交っていた。こちらは怖い暗い室内。ドア1枚がうらめしかった。

 しかたなく戻った。受付の若い女性2人に出口を尋ねた。通じなかった。なんと、金髪の女性が「listen to me」とぺらぺらしゃべり始めた。「わたしの話を聞いて」と言われても、その言葉しか判らないのである。こちらは。この出来事によって、「どうやら、これまでの客にやさしい観光地と違うようだ」と感じたのだった。

 それでも道を得てゆくと、ドアがあった。開けた。唖然とした。粛々としたドゥオーモの祭壇の真横だったのだ(気がする)。

 出るころ、夕方の祈祷(?)が始まった。席は半分くらいしか埋まっていない。まわりには、観光客らしい人々が立っている。

 祭壇の前には白い服を着た男性。その人が歌い出した。その歌の感じはうまく言えない。日本の読経とは違った。もっと朗々として、太く、ゆっくりとした歌の一種に聞こえた。でも、賛美歌ではなく、教典を語っているような気がした。シエナのドゥオーモでの音楽といい、翌々日ローマのミネルヴァ教会、家族用スペース(らしい)で聞いたお経といい、教会にはいろいろな音楽が流れるようだ。

 灰色のドゥオーモの前には噴水があった。

 国立ウンブリア美術館

 ドゥオーモは大通りの突き当たり、この美術館は大通りに面していた。黄色い明かりが付いて、あたたかな感じがした。1階でお金を払い、上った気がする。

 ピエロ・デッラ・フランチェスカの『サンタトニオ祭壇画』は、奥の部屋にあった。上の絵(受胎告知)は、柱のある大理石の宮殿などにきっちりとした科学的な遠近感が使われているようだ。マリアも冷たい感じがした。重要そうな上の絵よりも、いちばん下の小さな絵の男性像に惹きつけられた。砂漠(荒野?)で灰色の僧服(マント?)をまとい、表情も服のひだも現代的な感じがした。共感させられる人間だった。

 部屋の壁を埋めている、ラファエロの師匠、ペルジーノの街の絵もよかった。

 それから、マリア(?)の木彫。とてもよかった。おなじ作者で、2体あった。顔か、半身像だった。色はなかった。シンプルなのだけど、神秘的。この彫刻家に出会えたことがいちばんうれしかった。

 麗々しく展示されているほかの絵は、いいとは思わなかった。退屈だった。


 大通りは、人でいっぱいになっていた。人の海という感じがした。若い人が多かった。大学生だろうか。

 広く短い大通りを進むと、ところどころ、小路が開けていた。下りの坂道。お店に面した大通りと違い、たいへん暗かった。暗黒の地獄の底へ通じているような気がしてしまった。

 夜、部屋から見ると、いくつかの教会がライトアップされていた。バイクか何かの騒音がしきりに聞こえた。それで、土曜日という休日の夜であることに気づいた。

 ・・・と、ざっとイタリア旅行のことを書いているが、ツアーで決められていた食事のことはほとんど覚えていない。ペルージャは、夕食と朝食(バイキング)の部屋が違ったっけ。

 朝、時間があったのでホテルを出て、前日の道をひとりで進んでみた。エレベーターを上り、トンネルを通り抜け、丘の上の大通りに出た。人には会わなかった気がする。

 晴れている日だった。端っこの広場から眺めると、ふもとの平野に建物の集まりが見えた。ジョットのフレスコ画を見に行きたかったアッシジだ。遠くから町を望めただけでもうれしい。

 曲がりくねった小路のひとつをちょっと降りてみた。白っぽい朝の光を浴びて、ふつうの町中に見えた。

 昨夕、人で埋まっていた大通りは嘘のようにガランとしていた。車も通っていなかったかもしれない。お店は閉まっていた。歩道を、用事のあるらしい、ふつうの格好をした人が何人か歩いていただけ。リアルな感じがした。

 エレベーターを降りると、白い小型犬を連れた老人がやってきた。わたしがじーっと見ていたからか、笑顔で「チャオ」と言い、エレベーターに向かっていった。


 



ローマ


 思いがけず、すばらしいものに出会い続けていたので、有名なヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂にはすばらしいものが満載なのだろうと楽しみにしていた。

 ミケランジェロピエタは、よかった。

 それから、天井の、塔のようになっている明かり取り(?)。日光が差しこんでくる。それも、ミケランジェロのであった。(多才なんだなあ)

 しかし、あとはあまり。目に入ったのは、ハムがまかれたような柱。美しいバラ色の大理石の柱がわたしにはそう見えた。

 翌日、寝坊して訪れたヴァチカン美術館・ピナコテカはよかった。フラ・アンジェリコの砂山とか。しかし、ミュージアムショップに飛んでいったものの、法王のグッズや数珠などが売られており、宗教施設の印象であった。

 ラファエロは好きになれなかった。天使の絵も、ギリシアの哲学者の絵も。

 システィーナ礼拝堂は大きすぎた。人もいっぱいだった。

 気持ちが良かったのは、廊下。青空に緑の森が美しかった。狭そうな場所だけど、気持ちのいい森が広がっているようだった。

 サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂のカラヴァッジョの『聖マタイの召命』、象がかわいいとガイドブックにあったので寄ってみたミネルヴァ教会(?)の祭壇画もよかった。

 あと、ブランドの店がならぶ通り。日曜日で閉まっていたけれど、服が美しかった。

 サン・タン・ジェロ城のまるみ。

 つまらなかったのは、アウグスティヌスの墓廟。日本の古墳みたいな雰囲気だった。世界共通なのかもしれない。

 それから、ナヴォーナ広場近くの昔の落書き(?)。なんてことはなかった。

 翌朝。出発まで半日あった。ボルゲーゼ公園へ向かった。ガレリアでダ・ヴィンチを見られることを願って。入れなかった。ミュージアムショップには入れた。

 公園の端に、白人の子どもをあやす、アジア系の乳母たちがいた。しゃべったり、携帯電話に夢中だったり。その人の子どもは、ほかの人が見ていた。黒人の乳母もいたけど、3人だけ。楽しそうに喋りながら、乳母車を押して行った。我が子を抱いている白人もいたけど、却ってへんな感じに見えた。公園と道路をはさんだ向こう側では子ども達の歓声。幼稚園があるらしい。


 オランダの空港でずいぶん待った。ほとんど立っていたので疲れた。歩いていく人を見ていた。断然、黒人女性が美しかった。赤などの原色がとてもよく合っていた。

 ヴェネツィアの海っぺたの食事から初めて(たぶん)トラベラーズチェックを使った。クッキーとチョコレート。イタリアではほとんどお土産を買わなかったのだ。ツアーでお店にたびたび(それもずいぶん長くいたのだけど)、手持ち無沙汰だった。イタリアではポストカードばかり買い、写真を撮りまくっていた。現像代だけでも、立派な写真集の値段だった。でも、写真は良くないのだ。




 日本に帰ってきた時のことはあまり覚えていない。高速道路は渋滞していて、バスはなかなか進まなかった。

 ポストカードばかりを、辞書より厚いくらい買ってきたのを呆れられた。これが自分への、いちばんのお土産だった。飛行機でも機内に持ちこんだ。「バッグでも買ってくればよかったのに。そのためにお金をあげたのに」。似ている出来事があった。出がけに「本でも買いなさい」と1万円札を渡してくれた日のこと。

 イタリアに行って来たからといって、何かが大きく変わったわけではない。ただ、いくつかの私の考えは塗り替えられた。

 文章で、多様な文化の尊重がいわれていたが、ほんとうに、世界には違う歴史を背景にした文化が存在するのだった。それは、どちらに優劣があるとかではなく、ただ並立している感じで在るのだった。

 それから、実際の教会の内部。

 教会の音楽。

 行って、初めてわかるということがあるのだった。